
相米慎二監督の『ションベン・ライダー』(1983年)は、日本映画史上最も破天荒で、最も純粋で、最も理解不能な傑作の一つである。『翔んだカップル』でデビューし、『セーラー服と機関銃』で興行的成功を収めた相米が、その勢いのまま撮り上げたこの第3作は、一般的な映画の尺度では測ることのできない異形の作品として今なお輝き続けている。2025年に4Kレストア版が公開されたことで、この作品の獰猛で激しいエネルギーが再び蘇った。
子供を「わからない動物」として撮る覚悟
物語の骨格は単純である。ガキ大将のデブナガにいじめられている中学生3人、ブルース(河合美智子)、ジョジョ(永瀬正敏)、辞書(坂上忍)が、目の前でデブナガを誘拐したヤクザを追いかけ、覚醒剤をめぐる抗争に巻き込まれていく。しかし、この単純な筋書きは、相米の手にかかると完全に別の何かへと変容する。
塩田明彦監督が語ったエピソードが示唆的である。相米は「子供のリアルがわからないので長回しで撮る」と述べていたという。つまり、相米は子供を自分の幼少期の記憶で再構成するのではなく、完全に異なる生物、理解不能な存在として観察し、記録しようとしたのである。この態度が、『ションベン・ライダー』の最大の特徴である。観客は一度も自分の子供時代を思い出さない。ただ、画面の中で暴れ回る奇妙な生物を、呆然と眺めるだけである。
冒頭8分の長回しが宣言する相米ワールド
この映画を語る上で避けて通れないのが、冒頭8分間に及ぶワンシーン・ワンカットの大移動撮影である。3台のクレーンを用意し、カメラを回しながらクレーンからクレーンへと移し替えていく。この技術的にも狂気じみた撮影は、相米映画の真骨頂であると同時に、この作品全体を支配する「運動」への執着を象徴している。
カメラは子供たちの顔に寄ることを拒否する。河合美智子を除いて、3人の顔はほとんど判別できない。観客は服装で彼らを見分けるしかないが、クライマックス前に彼らは散髪をし、服まで交換してしまう。この徹底的な個性の排除は、相米が興味を持っているのが個々の人格ではなく、集団としての「運動」そのものであることを示している。子供たちは疾走し、転び、叫び、殴り合い、そしてまた走る。その純粋な運動こそが、この映画の本質である。
国際的再評価が照らし出す真の価値
公開当時、この作品は日本国内で「些細な子供向け娯楽」として扱われ、ごく一部の批評家しか熱意を示さなかった。しかし、映画評論家の蓮實重彦が2002年のFilm Commentで指摘したように、相米はこの作品で「いつか爆発する時限爆弾」を仕掛けていたのである。そして実際、海外の映画愛好家たちは、日本の批評家たちよりも早く、この作品の革新性を発見した。
Letterboxdでは、ある批評家がこの作品を徐克(ツイ・ハーク)の『Dangerous Encounters』と比較しながら、相米の作品が「怒りではなく神秘的」であり、「子供たちが交渉しなければならない世界の不条理に魅了されている」と評している。別の批評家は「トリュフォーの5倍」と表現し、ヌーヴェルヴァーグのエネルギーと遊び心をはるかに超えた次元に到達していると指摘する。興味深いのは、これが「幻想的なスタイルの正反対である、荒々しいリアリズムを通じて」達成されているという洞察である。
中盤の貯木場シーンに見る運動の極致
もう一つの有名な長回しは、中盤の貯木場のシーンである。カメラは船に乗ってまっすぐ移動しているだけだが、画面の中を7人の人物が右往左往する。子供たちとアラレ先生(原日出子)は何度も水に落ち、這い上がり、また落ちる。スタントマンを使わないこの撮影で、出演者たちは文字通り命がけの演技を強いられた。木之元亮は泳げなかったという。
この過酷な撮影現場のエピソードは、相米の「役者酷使」として悪名高い。しかし、その過酷さが画面に刻まれたリアリティは、計算された演技では決して到達できないものである。藤竜也演じる中年ヤクザの厳兵(ごんべい)も、相米の無茶な要求に半ばやけくそになりながら演じていたという。この混乱と疲労が、逆説的に作品に生々しい説得力を与えている。
物語の破綻と純相米吟醸
中盤以降、この映画の物語は完全に破綻する。横浜、熱海、名古屋、大阪と舞台はめまぐるしく変わり、何が起きているのか観客は理解できなくなる。実はこの作品、もとは4時間近くあったものを相米自身が泣く泣く2時間に切り詰めたという。物語が分からないのも無理はない。
しかし、この破綻こそが『ションベン・ライダー』の魅力である。通常の映画文法を無視し、因果関係を放棄し、ただひたすら子供たちの運動だけを追い続ける。予想を裏切る展開の連続。死体の反対側のドアを開けると歯を磨いている人間がいる。話しているブルースを殴り飛ばして話し始める辞書。これらの「やりすぎ」に見える演出も、作品全体を貫く狂ったエネルギーによって正当化される。
相米は本人の言葉を借りれば、「夏休みの間、ひたすら西に向かって走るという映画」を作ったのである。それ以上の意味を求めることは、おそらく的外れである。この作品は、ある意味で映画という形式を借りた純粋な運動の記録なのだ。
まともな大人が一人も出てこない世界
この映画のもう一つの特徴は、まともな大人が一人も登場しないことである。藤竜也演じる厳兵は、組織から裏切り者を連れ戻すよう命じられた中年ヤクザだが、彼もまた無力で哀愁に満ちている。警察官も、教師も、親も、誰一人として機能していない。大人たちは自分の問題で精一杯で、子供たちのことなど気にかけていない。
この大人の不在、あるいは大人の無能さが、子供たちの自由と危険を同時に生み出している。彼らは大人の世界の隙間を疾走し、覚醒剤密売やヤクザの抗争という暗黒に触れながらも、それを完全には理解しない。子供たちにとって、すべては遊びの延長であり、冒険である。この無邪気さと残酷さの共存が、この映画の不穏な魅力を形成している。
河合美智子、永瀬正敏のデビューという奇跡
この作品は、河合美智子と永瀬正敏のデビュー作でもある。特に河合美智子のボーイッシュで生命力に溢れた存在感は、この映画の中心的な輝きである。彼女だけはカメラが顔に寄り、その表情を捉える。永瀬正敏は後に名実ともに一流俳優となるが、ここではまだ粗削りな少年の姿がある。子役として既にキャリアのあった坂上忍も、相米の要求に応えて激しい演技を見せている。
彼らの若さと未熟さが、この作品にとって不可欠な要素となっている。完成された演技ではなく、生のエネルギーそのものが画面に刻まれている。相米の長回しは、この若い役者たちの「本当にそのキャラとして成立している瞬間」を捉えるための手段だったのである。
前期相米の頂点としての狂気
相米慎二のフィルモグラフィは、前期と後期に大きく分けられる。前期は獰猛で激しく、後期は静謐で美しく儚い。『ションベン・ライダー』は、前期相米の純度が最も高い作品、まさに「純相米吟醸」と呼ぶべき作品である。『台風クラブ』が「水」の映画であり、『お引越し』が「火」の映画であるとすれば、『ションベン・ライダー』は「風」の映画である。疾走する風、予測不能な突風、そして嵐のようなエネルギー。
この作品は、今の時代にはもう撮れない。子供を危険に晒し、役者を酷使し、物語を破綻させ、観客を置き去りにする。しかし、だからこそ、この作品は貴重なのである。映画がまだ荒々しく、予測不能で、危険だった時代の記録として。
結論として、『ションベン・ライダー』は、相米慎二という才能の最も純粋で、最も混沌とした表現である。この作品を理解しようとすることは、おそらく無駄である。ただ、その疾走に身を任せ、その狂気に呑み込まれるしかない。そして、画面から溢れ出るエネルギーに圧倒されながら、映画がかつて持っていた野生を思い出すのである。相米慎二は、子供を理解しようとせず、ただ観察し、記録した。その結果生まれたのが、この理解不能で、しかし忘れがたい傑作なのである。



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