今年初の蓮實詣で。ブランコの上昇と下降、加速と減速。リチャード・フライシャー『夢去りぬ』論。

イベント・レポート

先週末は新宿シネマカリテの閉館を最後まで見守ろうと思っており、実際にチケットも取っていたのだが、金曜日に緊急で告知が出たことを翌日に知った。シネマヴェーラ渋谷で月曜夜19時から、何と今年も正月から蓮實重彦氏が登壇するという。しかもテーマがリチャード・フライシャーの『夢去りぬ』だという。山中瑶子監督の『ナミビアの砂漠』を観た私は、通算29回目でほとんど脳のHPを使わずに帰路に就いた。観客でいた人々の名前をうっかり漏らすつもりはない。一夜限りの観客と一夜限りの夢の様な出来事が同時に進行していたのである。もし明日早朝7時までに起きれたらシネマヴェーラ渋谷の列に並ぼう。もし起きれなかったその時は素直にシネマカリテで最期の瞬間を見守ろうと安心しきって眠りについたのだが、翌朝6時に知恵熱の様に一瞬で目が覚めた。我ながらこのシネフィル魂には恐れ入るのだが、覚醒してしまった以上もうチケットを取りに行くしかない。キノハウスに着いたのは7時くらいで、余裕で一桁番台だった。

画像

2026年も正月に知の巨人と出会うことについて思いを巡らす。もうすぐ90歳だがまだ89歳の日常は病院通いがルーティンで、頼りない表明もあるにはあったが40分間の会話の著作権や許諾は全てシネマヴェーラにあり、私がここでうっかり書き記すつもりは毛頭ない。あくまでこの日の映画狂人の姿を神々しく見つめることが私に出来る精一杯の行為だったと思う。ここから先は蓮實重彦氏の実際の語録ではなく、映画史は常に誰かによって塗り替えられるべきという言葉に触発された私の単なる妄想であって蓮實重彦氏の発言ではない。

画像

蓮實重彦が『夢去りぬ』(The Girl in the Red Velvet Swing, 1955)を選んだことには、深い理由がある。この映画は、フライシャーのキャリアの中で最も「美しい」作品だからだ。しかしその美しさは、単なる視覚的豪華さではない。それは毒を包む砂糖衣であり、暴力を隠蔽する装飾であり、真実を歪曲する虚構の力そのものだ。そしてこの「美しい嘘」は、フライシャーが同じ時期に撮った『恐怖の土曜日』(Violent Saturday, 1955)の「醜い真実」と、鏡像のように対応している。

1955年、リチャード・フライシャーは二本の映画を撮った。『恐怖の土曜日』と『夢去りぬ』。両作品とも20世紀フォックス製作だが、そのスタイルは正反対だ。

『恐怖の土曜日』は、アリゾナの小さな町を舞台にした銀行強盗映画だ。シネマスコープで撮られたこの作品は、田舎町の日常を容赦なく暴く。偽善的な銀行員、アルコール依存症の鉱山技師、夫に裏切られた図書館司書。彼らの抑圧された欲望と暴力性が、銀行強盗という事件によって露呈する。フライシャーのカメラは、この小さな地獄を冷徹に記録する。

対照的に『夢去りぬ』は、20世紀初頭のニューヨーク上流社会を舞台にした豪華絢爛な作品だ。同じくシネマスコープだが、こちらはデラックス・カラーで撮影されている。建築家スタンフォード・ホワイト(レイ・ミランド)、大富豪の息子ハリー・K・ソー(ファーリー・グレンジャー)、そして美しいエヴリン・ネズビット(ジョーン・コリンズ)。この三角関係は、1906年のマディソン・スクエア・ガーデン屋上劇場での殺人事件に至る。

二つの映画は、どちらもアメリカ社会の暴力性を描いている。しかしそのアプローチは全く異なる。『恐怖の土曜日』は暴力を剥き出しにする。『夢去りぬ』は暴力を美で覆い隠す。この対照が、フライシャーという映画作家の核心を照らし出す。

赤いベルベットのブランコ 美を見る装置としての性的メタファー

『夢去りぬ』のタイトルにもなっている「赤いベルベットのブランコ」は、映画の中心的なイメージだ。建築家ホワイトは、16歳のエヴリンを自宅に招き、赤いベルベットで覆われたブランコに乗せる。エヴリンが空中で揺れる姿を、ホワイトは下から見上げる。

このシーンは、1950年代の検閲下では直接的な性描写ができなかった制約を、見事に逆手に取っている。ブランコの上昇と下降、加速と減速。これらはすべて性的行為のメタファーとして機能する。しかし重要なのは、このブランコが単なる性的メタファーではなく、「見られる」という行為そのものの装置であることだ。

エヴリンは、ブランコに乗ることで「見られる対象」になる。彼女の美は、見る者の欲望を投影する空白のスクリーンだ。ホワイトは彼女を見る。ソーも彼女を見る。そしてカメラも、つまり観客も彼女を見る。この多層的な視線の構造が、映画全体を貫いている。

一方『恐怖の土曜日』には、このような「見られる美」は存在しない。この映画の女性たちは、誰も美の対象として機能しない。図書館司書エミリー(シルヴィア・シドニー)は、夫の裏切りに苦しみながら働く中年女性だ。鉱山技師の妻リンダ(ヴァージニア・リース)は、夫のアルコール依存症に耐えながら家族を支える。彼女たちは「見られる」ために存在するのではなく、「生きる」ために存在する。

『夢去りぬ』のエヴリンが赤いベルベットのブランコで揺れる時、彼女は現実から離脱する。ブランコは彼女を日常から解放し、夢の中に連れて行く。しかし『恐怖の土曜日』の女性たちには、そのような逃避は許されない。彼女たちは地に足をつけ、暴力的な日常に耐え続けなければならない。

実在の事件と72歳の生存者 検閲が生んだ洗練

『夢去りぬ』は実話に基づいている。エヴリン・ネズビット本人が、撮影当時72歳でテクニカル・アドバイザーとして参加した。彼女の承認なしには、一切の撮影ができなかった。この制約は、しばしば批判の対象となる。「真実が歪められている」と。

しかしフライシャーは、この制約を創造的に利用した。72歳のエヴリンが許可する範囲でしか真実を描けないならば、その「許可された真実」と「隠蔽された真実」の間の緊張を、映画の主題にすればいい。実際、スタンフォード・ホワイトは肥満体の人身売買業者だったが、映画ではレイ・ミランドの威厳ある紳士として描かれる。ハリー・K・ソーは大西洋横断中にエヴリンを鞭打ち、性行為の告白を強要したが、映画はこれを直接描写しない。

しかしこの「描かないこと」が、逆説的に暴力を強調する。ファーリー・グレンジャーの演技は、言葉にされない暴力を全身で表現している。彼の目、彼の手、彼の声。これらすべてが、隠蔽された真実を暴露する。フライシャーは、検閲の制約下で、検閲を超える表現を達成した。

『恐怖の土曜日』には、このような検閲の問題はない。暴力は直接的に描かれる。銀行強盗たちは容赦なく人を殺す。偽善的な銀行員は、自分の臆病さを隠蔽できない。アルコール依存症の鉱山技師は、妻の前で崩壊する。この映画には、美による隠蔽がない。すべてが剥き出しだ。

しかし不思議なことに、この剥き出しの暴力は、『夢去りぬ』の隠蔽された暴力よりも、印象が薄い。なぜなら『恐怖の土曜日』の暴力は、物理的なものだからだ。殴る、撃つ、殺す。これらは目に見える。しかし『夢去りぬ』の暴力は、心理的で、構造的だ。エヴリンの美は、彼女自身のものではない。それは見る者の欲望が投影された結果だ。この構造的暴力は、物理的暴力よりも深く、より治癒困難だ。

殺人シーンの即物性 二つの映画における死の美学

『夢去りぬ』のクライマックスは、マディソン・スクエア・ガーデンの屋上劇場で起こる殺人だ。ハリー・K・ソーが、スタンフォード・ホワイトを射殺する。フライシャーはこのシーンを、驚くほど淡々と撮る。派手な音楽はない。スローモーションもない。ただ銃声、倒れる男、騒ぐ群衆。

この即物性は、フライシャーの真骨頂だ。殺人は劇的な瞬間ではない。それは嫉妬と狂気の論理的帰結に過ぎない。ソーがホワイトを殺すのは、突然の衝動ではない。映画全体が、この殺人に向かって着実に進行している。ブランコのシーン、結婚式のシーン、ヨーロッパ旅行のシーン。これらすべてが、殺人という結末を準備する。

『恐怖の土曜日』の殺人シーンも、同じく即物的だ。銀行強盗の一人が、目撃者を射殺する。しかしこの殺人には、『夢去りぬ』のような必然性がない。それは偶然の結果だ。もし目撃者がその場にいなければ、もし強盗が別のルートを選んでいれば、殺人は起こらなかった。

この対照は重要だ。『夢去りぬ』の殺人は、構造的暴力の必然的結果だ。美という虚構が、最終的には死という真実に至る。しかし『恐怖の土曜日』の殺人は、偶然の産物だ。日常の延長線上で、突然暴力が噴出する。

フライシャーは、どちらの暴力も等しく冷徹に撮る。彼は暴力を美化しない。しかし暴力を道徳的に断罪もしない。ただ記録する。この態度が、フライシャーを単なるハリウッドの職人監督以上の存在にしている。

町山智浩の指摘 徹底リアリズムと豪華絢爛の同一性

町山智浩は、フライシャーの『絞殺魔』(1968)や『10番街殺人』(1971)の徹底したリアリズムと、『夢去りぬ』の豪華絢爛さを対比させた。しかしこの対比は、実は同一性を隠蔽している。

『恐怖の土曜日』のリアリズムと『夢去りぬ』の豪華さは、表面的には正反対だ。しかし両者とも、「虚構の暴力性」を暴いている。『恐怖の土曜日』は、アメリカの田舎町という「善良な共同体」の虚構を破壊する。『夢去りぬ』は、ニューヨーク上流社会という「洗練された文化」の虚構を破壊する。

フライシャーにとって、リアリズムも豪華絢爛も、ただの技法に過ぎない。重要なのは、その技法を通じて何を暴くか、だ。『恐怖の土曜日』は、リアリズムという技法を使って、日常の暴力性を暴く。『夢去りぬ』は、豪華絢爛という技法を使って、美の暴力性を暴く。

そして両者に共通するのは、「即物性」だ。フライシャーのカメラは、決して感傷的にならない。『恐怖の土曜日』で銀行員が撃たれる時も、『夢去りぬ』でホワイトが撃たれる時も、カメラは同じ距離を保つ。この距離が、フライシャーの倫理そのものなのだ。

結論 美そのものが犯罪、犯罪が美学になる瞬間

蓮實重彦が89歳の正月に『夢去りぬ』を選んだのは、この映画が「美とは何か」という根源的な問いを提起するからだ。エヴリンの美は、彼女自身のものではない。それは見る者の欲望が投影された結果だ。そしてこの投影のプロセスそのものが、暴力だ。

『恐怖の土曜日』は、この暴力を別の角度から照射する。田舎町の住民たちは、互いの欲望を投影し合う。銀行員は偽善者として見られる。鉱山技師はアルコール依存症者として見られる。図書館司書は哀れな女として見られる。これらの視線もまた、暴力だ。

フライシャーの偉大さは、この視線の暴力性を、視覚的に表現したことにある。『夢去りぬ』の赤いベルベットのブランコは、「見ること」の装置だ。『恐怖の土曜日』のシネマスコープは、「見られること」の装置だ。両者とも、映画という媒体そのものが持つ暴力性を、自己言及的に暴いている。

美しい映像の下に潜む暴力。これこそがフライシャーのテーマだ。『夢去りぬ』の豪華さは毒を包む砂糖衣だ。しかし豪華さそのものが毒でもある。美とは何か? それは見る者の欲望だ。そして欲望は常に、暴力を伴う。

2026年の正月、シネマヴェーラ渋谷で一夜限りの上映を見た我々もまた、この暴力に加担している。我々はエヴリンの美を消費する。我々は72歳の生存者が承認した「許可された真実」を楽しむ。そしてこの享受そのものが、映画が告発する暴力の反復だ。

フライシャーは、この構造から逃れる道を示さない。『恐怖の土曜日』も『夢去りぬ』も、救済を提供しない。ただ診断するだけだ。美そのものが犯罪であり、犯罪が美学として成立する瞬間を、完璧に捉えた。この診断の正確さゆえに、70年経った今も、二つの映画は輝きを失わない。そして89歳の批評家が19歳の時に擁護すべきだと選んだ『夢去りぬ』は、その輝きの最も危険で、最も魅惑的な結晶なのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました