
物語経過 消失した姪を追って
ジョージアの黒海沿岸の町バトゥミ。気難しい元歴史教師リア(ムジア・アラブリ)は、トルコへ渡ったとされるトランスジェンダーの姪テクラを探している。亡くなった妹の最期の願いだった。彼女はかつての教え子ザザの家を訪ね、そこでザザの義弟アチ(ルーカス・カンカヴァ)と出会う。抑圧的な兄の元から逃れたい青年アチは、テクラを知っていると嘘をつき、リアに同行してイスタンブールへ向かう。
イスタンブールに到着した二人は、アチがGoogleで検索したトランスコミュニティの住所を訪れる。しかしそこに住む性労働者たちは、誰もテクラを知らなかった。手がかりを失い途方に暮れるリアとアチ。一方、映画は並行して別の人物を追い始める。トランスジェンダーの弁護士エヴリム(デニズ・ドゥマンリ)だ。彼女はLGBTQ+の権利擁護NGOで働き、性労働者や路上生活者を支援している。性別変更の書類手続きで役所をたらい回しにされても、彼女は諦めない。デートを楽しみ、友人と笑い合い、困っている人々を助ける。その姿は、生き生きとした現在を生きる女性そのものだ。
リアとアチの捜索は難航する。イスタンブールは「人が消えるために来る場所」だと誰かが言う。リアは次第に変わっていく。最初は冷たく厳格だった彼女が、エヴリムと出会い、街の片隅で踊り、過去の自分を思い出す。かつて村一番のダンサーだったこと、自由だった頃の自分。アチもまた、街で出会った若者たちから優しさを受け取り、居場所を見つけていく。

イタリア・ネオレアリズモの系譜としての再発見
Rotten Tomatoesで97%(60件の批評)、Metacriticで83点という圧倒的な支持 を得た本作。第74回ベルリン国際映画祭でLGBTQ+作品に贈られるテディ賞の審査員特別賞を受賞。監督アキンがイタリア・ネオレアリズモの伝統で作業しており、デ・シーカが全盛期にやったように観客の涙腺を操ると評価した。
「表面的にはほとんど共通点のない人々の間に形成される絆を感動的に描いている」「消えた人を探しに来る者が、その人が本当に見つかりたいと思っているかどうかを考えない」という指摘は、本作の核心を突いている。「静かで回復力のある、人間の繋がりの力についての映画」「クィアの物語を探求し続けるアキンは、この世代で最もエキサイティングな監督の一人という賞賛もあった。
しかし批評の中で最も重要なのは、「アキンはセンチメンタルな結末を提供せず、想像力の力と悲しみの現実の両方を尊重する予期せぬファンタジーのひねりを加えた」という指摘だ。この結末こそが、本作を単なる社会派ドラマから、より深い映画的省察へと引き上げている。

交差しない三つの旅 イスタンブールという不在の舞台
レヴァン・アキン監督が設計したこの映画の構造は、精巧だ。リア、アチ、エヴリム。三人の主人公は、それぞれ異なる時間を生きている。リアは過去の女性であり、現在と向き合っている。アチは現在の少年であり、未来を探している。エヴリムは未来の女性であり、現在を生きている。
この三つの旅は、物理的には同じイスタンブールという空間で交差する。しかし本質的には、彼らは決して完全には出会わない。リアとエヴリムが対話するシーンでも、二人の間には埋められない距離がある。エヴリムはテクラではない。しかし映画は長い間、観客にそう思わせる。「観客を能動的にさせたかった」とアキン監督は語る。我々は自分で二つの物語を結びつけようとする。そしてその試みは、失敗する。
この失敗こそが、映画の主題だ。我々が探しているものは、見つからない。しかし探すこと自体が、我々を変える。リアは頑固な教師から、温かく踊る女性へと変容する。ムジア・アラブリは両方の役柄と移行を見事に演じている。人々はイスタンブールで消えるが、別の姿で再び現れる。より寛容で人間的な姿である。

夢のリアリティ 想像力という救済
そして問題の結末。リアはテクラに会えない。しかし夢の中で、会う。ここで重要なのは、アキンがこの夢を「偽物」としてではなく、「もう一つの現実」として提示していることだ。監督自身が語る。「クィアの人々が、家を出た後に長老から温かさと承認を受け取ることがどれほど稀か? リアのような家長的で強い人物から、テクラが言葉を聞くこと。我々もその言葉を聞く必要があった」。
この夢は、カタルシスでありながら、嘘ではない。それは想像力の領域における真実だ。テクラは現実には現れないが、リアの心の中には生きている。そしてリアが変わったことで、テクラは救済される。たとえ彼女がもうこの世にいないとしても、誰かが彼女を探し、受け入れようとしたという事実が残る。
アントニオーニの『情事』との類似を指摘する声もある。あの映画でも、失踪した女性は最後まで現れない。しかし彼女の不在が、残された者たちを変えていく。『CROSSING』もまた、同じ構造を持つ。テクラという不在が、リア、アチ、エヴリムという三つの存在を交差させる。
消失という自由 見つからないことの倫理
本作が提起する最も困難な問いは、「テクラは見つかりたいと思っているのか?」というものだ。トランスジェンダーとして故郷を追われた者にとって、消えることは生存戦略かもしれない。家族の愛は時に暴力となる。リアの善意は、テクラにとって脅威かもしれない。
映画はこの倫理的ジレンマを、簡単には解決しない。リアはテクラを見つけられないが、それは失敗ではない。むしろ、テクラの自由を尊重する結果として描かれる。消失は、救済の一形態なのだ。イスタンブールは「人が消えるために来る場所」であり、同時に「新しく生まれ変わる場所」でもある。
「トランスの人々は人間化されるが、映画はドラマや搾取や露骨なトラウマに頼らない。トランスのアイデンティティと文化的アイデンティティの交差が、その複雑さの中で探求される」。エヴリムの存在は、この交差の生きた証明だ。彼女は被害者ではなく、活動家であり、恋人であり、友人だ。彼女の日常が、トランスジェンダーの人々の完全な人間性を示す。
結論 到達しない旅の意味
『CROSSING 心の交差点』は、ロードムービーの形式を借りながら、ロードムービーが約束する「到達」を拒否する。リアはテクラに会えない。アチは確実な未来を手に入れられない。エヴリムは性別変更の書類を完成させたが、社会の偏見は残る。誰も完全な答えを得ない。
しかしそれでいい、と映画は言う。旅は終わらない。交差は続く。我々は不在とともに生き、想像力の中で失われたものと再会する。この映画の106分は、完結しない物語の断片だ。しかしその断片の中に、映画でしか描けない真実がある。
テクラは見つからない。しかしリアの微笑みは本物だ。その矛盾を、アキンは詩的に肯定する。消失した者は、探す者の心の中で、永遠に生き続ける。それが、この美しく哀しい映画が最終的に到達する、到達しない場所なのだ。


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