道を歩くヒロインたち  女性の旅と映画の自己言及性

新作評

映画において、旅とは常に二重の意味を持つ。それは物語の中の移動であると同時に、映画そのものが観客を連れて行く旅でもある。ネリー・カプラン『パパ・プティ・バトー』(1971)と『シャルルとリュシー』(1979)、アニエス・ヴァルダ『冬の旅』(1985)、プレストン・スタージェス『サリヴァンの旅』(1941)。四つの作品はいずれも道を歩くヒロインたちを描きながら、同時に映画というメディアそのものを問い直す。

誘拐という自由と裸一貫の旅 カプランの二つの顔

カプランの『パパ・プティ・バトー』は、原題が童謡「ママ、小さなお船は」をもじったもので、父権的秩序への転覆が物語の核心にある。大富豪の令嬢クッキーは、鈍くさいギャング集団に誘拐される。通常、誘拐とは被害者の自由を奪う犯罪だが、聡明で蠱惑的なクッキーは、ギャングたちを次々と誘惑し、骨抜きにしていく。誘拐は転倒し、監禁される側が監禁する側を支配する。

重要なのは、クッキーが決して逃げようとしないことだ。彼女にとって誘拐という状況は、富豪の令嬢という役割からの解放を意味する。ギャングたちのアジトは、社会的規範が一時的に停止された空間であり、そこでクッキーは千変万化の「顔芸」で躍動する。彼女の旅は地理的な移動ではない。それは役割の移動、表象の遊戯、権力の転覆だ。そして最後、誘拐犯全員が死に、クッキーは「ひとつも手を汚していない」。彼女は歩かない。歩かせる。他者を動かし、状況を動かし、物語を動かす。

一方、カプランの『シャルルとリュシー』は、初老の夫婦が南仏の豪邸を相続したという知らせを受け、旅に出る物語だ。しかし豪邸は存在せず、詐欺に遭って全財産を失い、あげくに警察から追われる身となる。一文なしで南仏を逃げ回る二人は、強盗に身ぐるみを剥がれ、文字通り裸になる。

この「裸になる」というモチーフは『パパ・プティ・バトー』のクッキーの権力転覆と対照的だ。元歌手のリュシーと無能な骨董商のシャルルは、社会的役割を剥ぎ取られ、老いた身体だけを残される。60代の二人が真っ裸で海に入っていく後ろ姿は、現代のアダムとイヴだ。しかしカプランが描くのは失楽園ではなく、再生だ。リュシーの歌とシャルルの語りの才能が、彼らを救う。芸は身を助く。二人は最終的に、隠居して悠々自適な生活を送るのではなく、旅芸人として生きる道を選ぶ。

そして監督カプラン自身が占い師役で登場し、二人に「緑の光線」を目撃させる。この自己言及的な瞬間は、映画が単なる物語ではなく、監督の魔術によって構築された虚構であることを明かす。クッキーが歩かずに世界を動かしたのに対し、リュシーとシャルルは歩き続けることで世界との関係を取り戻す。カプランの二つの作品は、女性の旅の両極を示している。

凍死へと続く道 ヴァルダの記憶の断片化

ヴァルダの『冬の旅』は、18歳のモナが寝袋とリュックを背負い、ヒッチハイクで流浪し、最後は凍死する物語だ。映画は冒頭、モナの死体発見から始まり、逆行的に彼女が死に至るまでの数週間を辿る。しかしこの遡行は、モナ自身の記憶ではない。それは彼女に出会った人々の証言によって構成される。

ヴァルダは劇映画に疑似ドキュメンタリーの手法を導入する。モナを知る人々が、まるでインタビューに答えるようにカメラに向かって語る。バイカーの青年、牧場の夫婦、プラタナスを研究する女教授、浮浪者グループ、大きな屋敷の女中。彼らの証言は矛盾し、断片化され、モナの全体像は決して明らかにならない。

ここでヴァルダは、映画の表象の限界を示す。映画は通常、主人公の内面を観客に開示する特権的なメディアだ。しかし『冬の旅』のモナは、常に謎のままだ。彼女は語らず、語られる。そして語る者たちは、いずれも自分自身を投影してモナを語る。女教授はモナに研究者としての情熱を見、女中はモナに自由への憧れを見る。モナの旅は、他者の欲望のスクリーンとなる。

ヴァルダ自身、写真家でありビジュアル・アーティストだ。『冬の旅』の映像は、西洋絵画を思わせる構図で満たされている。しかしその美しさは、モナの悲惨な現実を覆い隠すのではなく、際立たせる。ヴァルダの移動カメラが捉えるのは、社会のルールや価値観に従うのではなく、自ら自由を選んだ少女の生き様であり、それはミステリアスで、穢れ、脆く、抗い続ける、開放された崇高な魂の軌跡だ。

原題『Sans toit ni loi(屋根も法もなく)』が示すように、モナはすべてを拒絶する。しかし彼女の拒絶は、クッキーの権力転覆のような戦略性を持たない。モナは単に歩き続け、そして力尽きる。彼女は逃げているのではなく、何かに向かって進んでいるのでもない。ただ歩き続け、そして凍死する。モナの足跡は、彼女自身の記憶ではなく、他者の記憶として残る。道程は断片化され、証言という形でしか存在しない。

往還する旅 スタージェスの映画への愛

スタージェスの『サリヴァンの旅』は、1941年のハリウッドという映画産業の中心で作られた、最も自己言及的な映画の一つだ。コメディ映画で成功した監督サリヴァンは、社会派映画を撮りたいと願い、貧困を知るために浮浪者として旅に出る。しかし彼の旅は当初、茶番だ。映画会社のスタッフがトレーラーで追いかけ、彼の「貧乏体験」は次回作の宣伝のための演出に過ぎない。

転機は、ハリウッドのカフェで出会ったブロンドの美女だ。彼女はエルンスト・ルビッチの映画に出演する夢に破れ、故郷に帰ろうとしていた。サリヴァンが映画監督だと知らない彼女は、彼を貧しい浮浪者だと思い、暖かいコーヒーをご馳走する。ここから、二人の本当の旅が始まる。

重要なのは、この女性が劇中で名前を持たないことだ。クレジットには「The Girl」とだけ記される。彼女は役割ではなく、機能として存在する。女優志望という設定そのものが、彼女を映画産業の表象の問題に結びつける。彼女は役を演じたいが役を得られない。そしてこの映画の中で、彼女はまさに「ヒロイン」という役割を演じている。

サリヴァンと彼女は浮浪者の格好で路上生活を体験し、ハリウッドに戻り、再び路上へ出る。この往還の中で、サリヴァンは誤って強制労働の刑務所に入れられる。彼が望んだ「貧困の体験」が、文字通り現実となる。そして刑務所で、囚人たちと共にミッキーマウスのアニメを見る。囚人たちは笑う。その笑いを見て、サリヴァンは気づく。コメディが人々に与える希望を。娯楽の力を。

映画の冒頭、スクリーンには献辞が映る。「娯楽で人々に笑いを届けるすべての人に捧げる」。この献辞は、映画が始まる前にすでに、映画の結論を提示している。『サリヴァンの旅』は、映画について映画を作る映画であり、その自己言及性は徹底している。

四つの旅の共通項 女性の旅と表象の政治学

四作品に共通するのは、ヒロインたちの旅が常に他者のまなざしによって媒介されるということだ。カプランの『パパ・プティ・バトー』では、クッキーは男たちの欲望の対象として機能しながら、その権力関係を転覆させる。『シャルルとリュシー』では、リュシーは元歌手であり、再び舞台に立つことで自己を回復する。ヴァルダの『冬の旅』では、モナは他者の証言によってのみ存在する。スタージェスの『サリヴァンの旅』では、ヒロインは名前すら持たず、「The Girl」として機能する。

三人の監督はいずれも、女性の旅を通じて、映画の表象の政治学を問う。カプランは女性が身体を通じて社会と交渉する様を描き、ヴァルダは女性がいかに誤解され、記号化されるかを示し、スタージェスは女優志望という存在そのものが映画産業の構造を体現することを明らかにする。

そして四作品はいずれも、ロードムービーというジャンルを自己言及的に用いる。ロードムービーは通常、男性的なジャンルだ。『イージー・ライダー』や西部劇のカウボーイたち。しかしカプラン、ヴァルダ、スタージェスは、女性をロードムービーの中心に置くことで、そのジャンルの前提を問い直す。女性が道を歩くとき、それは男性の旅とは異なる意味を持つ。女性の旅は常に危険であり、性暴力の脅威に晒され、社会的な視線に監視される。

道程の記憶と映画の魔術

道程の記憶とは、歩いた者自身の記憶ではなく、その足跡を見た者たちの記憶だ。四作品はいずれも、ヒロインたちの主体性を描きながら、同時にその表象の困難さを示す。クッキーは記号として機能し、リュシーとシャルルは旅芸人として再生し、モナは誤解され、サリヴァンのヒロインは名前すら与えられない。

クッキーは歩かずに世界を動かし、リュシーとシャルルは歩き続けて愛を取り戻し、モナは歩き続けて力尽き、サリヴァンとヒロインは往還して帰還する。四つの旅の形は異なるが、いずれも道程そのものが目的だ。到達点は重要ではない。重要なのは、彼女たち/彼らが歩いたという事実、その足跡が地層のように他者の記憶に堆積していくということだ。

映画は本質的に、記憶の装置だ。フィルムは光の痕跡を記録し、編集は時間を再構成し、上映は記憶を共有する。四作品が示すのは、ヒロインの旅が映画そのもののメタファーだということだ。映画もまた、到達点のない旅であり、観客の記憶の中でのみ完成する。

『シャルルとリュシー』でカプラン自身が占い師として登場し、「緑の光線」という神秘現象を映画に捉えるとき、それは映画そのものが魔術であることの宣言だ。『冬の旅』でヴァルダが疑似ドキュメンタリーの手法を用いるとき、それはフィクションとノンフィクションの境界が曖昧であることの証明だ。『サリヴァンの旅』でスタージェスがコメディの力を称揚するとき、それは映画が単なる娯楽ではなく、人々に希望を与える芸術であることの確認だ。

カプラン、ヴァルダ、スタージェスは、それぞれの方法で、歩くことの政治性と詩学を描いた。そして彼女たち/彼の映画は、今も私たちの記憶の中を歩き続けている。クッキー、リュシー、モナ、そして名もなきヒロイン。彼女たちの足跡は、道程の記憶として、映画史に永遠に刻まれている。速度に支配された現代社会の中で、道を歩くヒロインたちの旅は、抵抗の拠点であり続ける。時間を取り戻すこと。それが彼女たちの、そして映画の、最も政治的なメッセージなのかもしれない。

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