
タンゴのステップで踏む7時間18分
タル・ベーラの『サタンタンゴ』(1994)は、準備に9年、撮影に2年、完成まで4年を要した438分(7時間18分)の大作だ。全編約150カットという驚異的な長回しで構成され、2025年にノーベル文学賞を受賞したラースロー・クラスナホルカイの同名小説を原作とする。題名は「悪魔のタンゴ」を意味し、タンゴのステップ「6歩前に、6歩後へ」に呼応した12章で構成される。前半の6章は複数の視点で時間を行きつ戻りつしながら一日の出来事を描き、後半の6章はイリミアーシュが戻ってきてからを描く。そして最後に、この物語が円環的であることが明らかになる。
物語の経過 絶望の村と救世主の到来
経済的に行き詰まり、終末的な様相を纏ったハンガリーのある村。雨が降り始めた。もう、春が来るまで降り止まない。降り続く雨と泥に覆われ、集団農場は崩壊し、教会も荒れ果て、村人同士は疑心暗鬼に陥っている。
農夫のシュミットは友人クラーネルと組んで村人たちの貯金を持ち逃げする計画を妻に話して聞かせる。しかし、妻と不倫関係にある村人フタキが盗み聞きをしていた。フタキは自分も話に乗ることを思いつく。その時、家のドアを叩く音がして、やって来た女は信じがたいことを言う。「1年半前に死んだはずのイリミアーシュが帰ってきた」と。

イリミアーシュの帰還を耳にした村人たちは酒場に集まり、喧々諤々の議論を始める。しかし議論はいつの間にか酒宴となり、夜が更けていく。映画の中盤、酒場での長いダンスシーンが展開される。これが「サタンタンゴ」だ。疲れ果てた男たちと女たちが、延々と踊り続ける。哲学者は延々と物事を語り、疲れた男は女に触り踊り続ける。娼婦は男を避けられず、労働者はひたすらパンを運び続ける。音楽家だけが演奏し続けることのできる世界。
しかしこのダンスシーンの背景には、すでに観客が知っている悲劇が横たわっている。映画の序盤から中盤にかけて、ある少女と猫が描かれる。邪悪で哀しい悲劇だ。少女は村の大人たちから疎まれ、孤独の中で猫を虐待し、やがて自ら命を絶つ。この少女の死を知った上で、我々は酒場のダンスを見る。淡々としかし慎重に描かれた序盤があったからこそ、サタンタンゴはより陰鬱なものとして映し出される。あの長い長いタンゴの背景に、あの少女の死が浮かんでくる。

翌日、女の言葉通りにイリミアーシュが村に帰ってくる。彼は救世主のように村の未来像を語る。新しい農場を作ろう、共同体を再建しよう、希望はまだある。イリミアーシュの言葉に、村人たちはついて行こうと決める。彼らは貯金を集め、村を捨て、イリミアーシュが示す新天地へと向かう。
しかし真実は異なる。イリミアーシュは警察の密偵であり、村人たちを監視し報告することで金を得ていた。村人たちを新しい荘園に連れて行った後、イリミアーシュは彼らを置き去りにして去る。村人たちは結局、別の絶望的な場所に閉じ込められただけだった。

物語は最後、冒頭に登場した医師のもとへと戻る。彼は自室の窓から村の出来事をすべて観察し、記録し続けていた。窓に板を打ちつけ、外界を遮断した医師は、闇の中で鐘の音を聞きながら記録を続ける。円環は閉じる。救済はない。ただ、鐘の音だけが鳴り響く。
革新性 時間の物質化
『サタンタンゴ』の革新性は、まず何よりもその時間の扱いにある。7時間18分という上映時間は、単なる挑発ではない。それはタル・ベーラが到達した時間認識の表現だ。彼の映画における時間は、物語を運ぶための容器ではなく、それ自体が経験される。観客は物語を「見る」のではなく、時間を「生きる」。
冒頭、牛の群れが泥濘の中をゆっくりと歩くシーンが数分間続く。広場を馬が駆けるシーンも、人が歩く後ろ姿も、すべてが実時間に近い長さで提示される。これは忍耐を要求するが、同時に瞑想的な経験でもある。タル・ベーラは時間を物質化する。泥濘、雨、風。これらすべてが時間の重さを持つ。
マーティン・スコセージは言う。「タル・ベーラは、最も勇気のある映画作家の一人であり、『サタンタンゴ』は心の中で反芻し続けることのできる、真の映画体験である」。ガス・ヴァン・サントは「彼の作品は人生の真のリズムに非常に近く、それは新しい映画の誕生を見るようだ」と語る。ジム・ジャームッシュは「タル・ベーラの映画は、ありきたりのしきたりや形式の陰に隠れている、映画が語り得る美しく奇妙な可能性を思い出させる」と述べた。
そして作家スーザン・ソンタグは、この作品を「壊滅的で、7時間のすべての瞬間が魅惑的。残りの人生で毎年観たい傑作」と激賞した。製作から30年以上経った現在でも、Rotten Tomatoesで批評家から100%評価を維持し続けている。2012年、英国映画協会の雑誌『Sight and Sound』が選ぶ傑作映画トップ100で、『サタンタンゴ』は36位となった。そのリストにおける唯一のハンガリー映画だ。
構造の妙 複数の視点と円環
『サタンタンゴ』の物語構造も革新的だ。前半の6章は、同じ一日を複数の視点から描く。ある章で見たシーンが、別の章では別の角度から、別の意味を持って現れる。我々は何度も同じ時間を通過するが、その度に新しい層が明らかになる。これは映画的時間の相対性を示す実験でもある。
そして円環構造。医師が窓から村を観察し記録するという設定は、メタ的な次元を持つ。彼は作家の分身であり、観客の分身でもある。我々もまた、スクリーンという窓から村を観察し、記録(記憶)する。最後、医師が窓を板で塞ぐとき、物語は完全に閉じられる。しかし鐘の音は鳴り続ける。その音は、映画が終わった後も、観客の頭の中で鳴り響き続ける。
モノクロの美学と長回し
全編モノクロで撮影された『サタンタンゴ』の映像は、圧倒的な美しさを持つ。撮影監督メドヴィジ・ガーボルが捉えた映像は、Village Voice誌に「映画史上最も素晴らしいモノクロームショット」と評された。雨に濡れた石畳、泥濘の中を歩く人々、荒れ果てた建物。これらすべてが、モノクロの濃淡によって彫刻的な質感を獲得する。
150カットで7時間18分を構成するということは、1ショットの平均は約3分だ。しかし実際には、10分を超えるショットも複数ある。長回しは、タル・ベーラにとって単なる技法ではなく、世界を見る方法だ。カメラは動き続けるが、編集によって時間を切断することはしない。我々は、登場人物たちと同じ時間を共有することを強いられる。
現代への予言
興味深いのは、1994年に製作されたこの作品が、現代社会への予言のように見えることだ。イリミアーシュと、彼の言葉によって動かされる村人たちの姿は、まさしく現代社会で起こっていることを想起させる。救世主を装う扇動者、真実を見抜けない群衆、裏切り、絶望、そして円環する歴史。共産主義崩壊後のハンガリーを舞台にしながら、この映画はあらゆる時代、あらゆる場所に適用可能な寓話となっている。
結論 映画体験としての『サタンタンゴ』
『サタンタンゴ』を7時間18分かけて劇場で観ることは、単なる映画鑑賞ではない。それは一種の儀式であり、修行であり、啓示だ。終映後、劇場は独特の空気に包まれる。ともに客席で過ごした見知らぬ観客たちと、連帯感のようなものが生まれる。鐘の音が頭の中で鳴り響き続ける。
タル・ベーラは『サタンタンゴ』で、映画の極北に到達した。そしてその極北から、映画の新しい可能性を指し示した。時間を物質化すること、沈黙に耳を傾けること、絶望を見つめ続けること。これらすべてが、映画という芸術の本質に関わる。
『サタンタンゴ』は、見る者を選ぶ。しかし一度その泥濘に足を踏み入れた者は、決して同じ場所には戻れない。映画とは何か、という問いが、根底から書き換えられるからだ。


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