【第3060回】ゆりやんレトリィバァは『ピンク・フラミンゴ』のディヴァインなのか?:『禍禍女』作品評

新作評

「醜さ」を武器にする者たち

1972年、ジョン・ウォーターズは『ピンク・フラミンゴ』でディヴァインという怪物を世に放った。300ポンドを超える巨体、ドラァグクイーンという出自、そして「世界で最も下品な人間」の称号を巡る狂気の物語。それは既存の美意識を嘲笑し、社会の偽善を暴き、アウトサイダーの視点から「正常」という概念そのものを破壊する暴力的な作品だった。

ゆりやんレトリィバァもまた、自らの身体性と「普通じゃない」存在感を武器にしてきた芸人だ。だからこそ、彼女が監督・主演を務めた『禍禍女』には、ある種の期待があった。もしかしたら、日本版ディヴァインとして、この窮屈な社会に風穴を開けてくれるのではないか、と。

しかし、結論から言えば、この映画は今年公開された日本映画の中でも屈指の失敗作である。それは単に「つまらない」という次元ではなく、ゆりやんレトリィバァがジョン・ウォーターズのようなアウトサイダーの視点を持ち合わせていないことを、125分かけて証明してしまった作品だからだ。


ディヴァインが「攻撃」し、禍子は「耐える」:決定的な差異

物語の骨子は、地方都市で「厄災を呼ぶ女」として疎まれる主人公・禍野禍子(ゆりやん)が、次々と起こる不幸な出来事の犯人に仕立て上げられ、村八分状態に陥る…という筋書きだ。これは『楢山節考』や『砂の女』のような「共同体からの疎外」をテーマにした日本映画の系譜を意識しているようだが、致命的なのはこの映画に何の葛藤も展開もないことだ。

禍子は冒頭から延々と理不尽な扱いを受け続ける。それは10分でも30分でも60分でも変わらない。ひたすら「可哀想な禍子」が描かれ、周囲の人間は紋切り型の悪意を向け続ける。ドラマツルギーの基本である「状況の変化」「主人公の選択」「対立の激化」といった要素が一切存在しない。ただ同じ構図が繰り返されるだけだ。

中盤で禍子が「自分は本当に厄災を呼んでいるのか?」と自問するシーンがあるが、これも深掘りされることなく放置される。終盤で突然「実は禍子には超能力があった」という設定が明かされるが、これも伏線なく唐突に投げ込まれるだけで、物語に何の推進力も与えない。脚本が存在しないのではないか、と疑うレベルの構成の杜撰さだ。


ゆりやんの無駄遣い:演技でも演出でもない自己消費

ゆりやんレトリィバァは、バラエティ番組では縦横無尽に動き回り、大胆な身体表現と鋭い言語センスで笑いを生み出す。しかし本作では、監督と主演を兼任することで、その武器がことごとく封じられている。

禍子は終始うつむき加減で、小さな声でぼそぼそと喋り、リアクションも最小限に抑えられている。ゆりやん自身が「新しい一面を見せたかった」と語っているが、それは単に自分の持ち味を殺しただけだ。ゆりやんの身体性、間の取り方、表情の豊かさ:すべてが「抑えた演技」という名目で無効化されている。

そして、白石和彌と清水崇という日本映画界を代表する監督二人を「友情出演」という名目で起用しながら、彼らを完全に無駄遣いしていることも看過できない。白石は通行人A、清水はYouTubeのゲストとして数秒映るだけで、何のドラマも生まない。これは人脈の誇示でしかなく、映画作品としての必然性が皆無だ。才能ある監督たちをこのような形で消費することは、映画への冒涜である。


社会派のフリをした空疎さ

この映画は「現代社会における排除と差別」をテーマにしているらしい。禍子がSNSで誹謗中傷を受けるシーン、地域コミュニティから孤立するシーン、そして「自己責任論」を押し付けられるシーンが挿入される。しかし、これらはすべて表層的なモチーフの羅列に過ぎない。

「SNSでの炎上」も「村社会の同調圧力」も、すでに無数の映画やドラマで描かれてきたテーマだ。本作はそれらを安易に切り貼りしただけで、何ひとつ新しい視点を提示していない。禍子がなぜ疎まれるのか、共同体の論理はどこから来るのか、そして禍子自身はどう抵抗するのか:こうした問いに真摯に向き合うことなく、ただ「現代社会は生きづらい」という漠然としたメッセージを垂れ流すだけだ。

特に酷いのは、ラストシーンである。禍子は突然覚醒し、自分を虐げてきた人々に向かって「私は禍々しくなんかない!」と叫ぶ。そして超能力で周囲を吹き飛ばし、颯爽と街を去っていく。これは「抑圧された者の解放」を描いたつもりなのだろうが、単なる荒唐無稽なカタルシスの捏造にしか見えない。125分間、何ひとつ積み重ねてこなかった物語が、最後に「スカッとする展開」だけを取って付けたような浅はかさだ。


演出の無能:映像にも音にも意図がない

ゆりやんレトリィバァは本作で監督デビューを果たしたが、その未熟さは全編に渡って露呈している。

まず、カメラワークに一貫性がない。ある場面では手持ちカメラで揺れ動き、別の場面では固定ショットで延々と人物を映し続ける。これが何らかの演出意図に基づいているなら理解できるが、単に「それっぽい撮り方」を場当たり的に選んでいるだけにしか見えない。

さらに唖然とさせられるのが、悪趣味極まりない演出の数々だ。禍子の部屋に貼られた前田旺志郎の写真:その口の部分が肛門のように加工されているという、ただただ下品なだけのビジュアルに何の意味があるのか。これが「笑い」を狙ったものなのだとしたら、その感覚は致命的に古く、幼稚だ。

そして南沙良に、あろうことか下劣な言葉を連発させる場面がある。清純派女優として知られる彼女の口から発せられる汚い言葉は、「毒のあるコメディ」ではなく、ただの悪趣味だ。南沙良という女優の持ち味を完全に無視した下品な演出は、映画の品位を著しく貶める。

より深刻なのは、本作全体に漂うミソジニー的な表現の居心地の悪さだ。女性である禍子が延々と虐げられる構図、女性キャラクターに下品な言葉を言わせる演出、そして女性の身体をグロテスクに歪める描写。ゆりやん自身が女性でありながら、女性を「笑いのネタ」として消費する姿勢には、看過できない問題がある。これは「女性だから許される」表現ではなく、むしろ女性監督だからこそ批判されるべき視点の欠如である。

照明も杜撰だ。昼間のシーンなのに顔が暗く沈み、夜のシーンなのに不自然に明るい。色調補正も統一されておらず、シーンごとに色温度がバラバラだ。これは技術的な問題以前に、「この映画をどう見せたいのか」というビジョンが監督兼主演のゆりやん自身に存在しないことの証左である。

総評:ゆりやんはディヴァインにはなれなかった

『禍禍女』は、今年公開された日本映画の中でも最も失望させられた作品である。それは単に「駄作」というだけでなく、ゆりやんレトリィバァがジョン・ウォーターズのようなアウトサイダーの視点を持ち合わせていないことを露呈させた作品だからだ。

ディヴァインは徹底的なアウトサイダーだった。社会から疎外され、嘲笑され、それでもなお、自らの存在を武器にして社会に挑戦し続けた。ジョン・ウォーターズは、そんなディヴァインの身体と精神を通じて、既成の価値観を破壊した。そこには明確な怒りがあり、嘲笑があり、そして破壊の美学があった。

ゆりやんもまた、お笑い芸人として「異端」の位置にいるかもしれない。しかし本作において彼女は、真のアウトサイダーの視点を持ち合わせていなかった。下品さは悪趣味に堕し、身体性は封じられ、社会批判は空疎で、ラストシーンは安易なカタルシスに逃げた。

『禍禍女』は、カルト映画への憧憬だけで作られた空虚な作品である。企画の杜撰さ、脚本の崩壊、演出の未熟さ:これらすべてが重なり合い、125分間の虚無を生み出している。

ゆりやんは「ディヴァインになりたかった」のかもしれない。しかし、ジョン・ウォーターズのような真のアウトサイダーの視点:社会への怒り、権威への嘲笑、そして徹底的な破壊の哲学:を、彼女は持ち合わせていなかった。その結果、本作はただの模倣に終わった。

ゆりやんレトリィバァという才能は、もっと別の場所で輝くべきだ。少なくとも、安易なカルト映画の模倣ではなく。

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