【第3054回】「自分自身であってはならない」:アルノー&ジャン=マリー・ラリユー監督『トラララ』 作品評

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2021年製作、2022年に日本で初上映されたアルノー&ジャン=マリー・ラリユー監督の『トラララ』は、コロナ禍という特殊な時代に撮影された、極めて異質なミュージカル映画である。フランス南西部ピレネー山脈の麓ルルド出身のラリユー兄弟が、聖地ルルドを舞台に、アイデンティティの放浪と再生を描いた120分は、観客を幻惑し、困惑させ、そして深い感動へと導く。

48歳のホームレス歌手トラララ マチュー・アマルリックという肉体

主人公トラララを演じるのは、マチュー・アマルリックである。48歳のホームレス歌手。彼は、街角で歌い、金を稼ぎ、そして彷徨う。アマルリックの痩せこけた身体、不安定な足取り、そして時折見せる狂気のような笑顔。彼は、ラリユー兄弟の常連俳優であり、この役のために生まれてきたかのようである。

トラララは、ある日、聖母を幻視する。正確には、ヴィルジニーという名の少女が聖母として彼に現れる。そして、彼女は告げる。「あなた自身であってはならない」。この一言が、この映画のすべてを支配する。

「自分自身であってはならない」 アイデンティティの放浪

「あなた自身であってはならない」。この逆説的なメッセージは、何を意味するのか。それは、固定されたアイデンティティからの解放である。社会は、私たちに「自分自身であること」を要求する。しかし、その「自分自身」とは、社会が決定した枠組みの中での「自分」に過ぎない。トラララは、ホームレスという社会的地位、48歳という年齢、そして歌手という職業に縛られている。聖母の言葉は、その呪縛からの解放を促している。

序盤、トラララは常に移動し続ける。パリの街角から、郊外へ、そしてルルドへ。この絶え間ない移動は、単なるロードムービーではない。それは、アイデンティティの放浪である。固定された場所を持たないこと、それ自体が、固定されたアイデンティティからの逃走なのだ。

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ルルドという聖地 死者パットとしての再生

トラララは、聖地ルルドにたどり着く。そして、あるホテルに潜り込む。そこで、彼は女将に死んだ息子パットと間違えられる。パットは20年前にアメリカで消息を絶った息子である。トラララは、この誤解を訂正しない。むしろ、彼はパットとして振る舞い始める。

パットの兄、パットの元恋人たち。彼らは、トラララがパットではないことに気づいている。あるいは、気づいていないふりをしている。しかし、誰も明確にそれを指摘しない。この曖昧さが、この映画の核心である。トラララは、パットというアイデンティティを、本人とは別に持ってしまう。彼は、トラララでありながら、同時にパットでもある。

この二重性は、コロナ禍という時代と深く結びついている。パンデミックの中で、私たちは皆、マスクを着用した。マスクは、顔という最も個人的なアイデンティティの印を隠す。私たちは、マスクの下で「自分自身」であり続けたのか。それとも、マスクをつけた瞬間から、私たちは別の何かになったのか。

マスクという象徴 コロナ禍におけるアイデンティティ

本作は、コロナ禍に撮影された。そのため、街を歩く人々の多くがマスクをつけている。トラララが路上で歌い始めると、通行人たちは露骨に嫌そうな顔をして、彼を避けて通る。この光景は、パンデミック初期の緊張感を思い起こさせる。

しかし、ラリユー兄弟は、このマスクに独自の意味を与える。本作において、マスクは「自分自身である」ことの象徴である。マスクをつけた人々は、社会のルールに従い、「自分自身」として振る舞っている。一方、トラララと交流した人々は、次第にマスクを外していく。それは、彼らが「自分自身であってはならない」という聖母のメッセージに触れたからだ。

メラニー・ティエリーが演じる元恋人は、青い土産物屋で歌い踊る。この場面は、本作で最も印象的なシーンの一つである。彼女は、マスクを外し、かつての自分を取り戻す。あるいは、かつての自分ではない何かになる。この曖昧さこそが、ラリユー兄弟の映画の魅力である。

ドゥニ・ラヴァンの疾走 メフィストフェレスとしての悪戯

ドゥニ・ラヴァンが、まるでメフィストフェレスのように走り回る。彼は、悪ガキのように、あるいは悪魔のように、物語をかき乱す。ラヴァンは、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(1991年)で知られる俳優だが、ここでの彼は、まったく異なる顔を見せる。彼の疾走は、物語の外側からやってくる何かを象徴している。それは、混沌であり、自由であり、そして破壊である。

ミュージカルとしての『トラララ』 半透明のきらめき

本作は、ミュージカルである。しかし、ハリウッドのミュージカルとは全く異なる。歌は、突然始まり、突然終わる。踊りは、洗練されていない。しかし、その「洗練されていなさ」こそが、この映画の生命力である。

ラリユー兄弟の映画には、「半透明のきらめき」がある。光と影、現実と幻想の境界が曖昧である。シーツを纏った女性が陽の光越しにたたずむ場面。これは、ラリユー兄弟の映画の定番モチーフである。光は、物質を透過し、そして物質を変容させる。人間もまた、光によって変容する。

家族の和解 死者を通じた再生

トラララがパットとして振る舞うことで、パットの家族の間にあったわだかまりが解けていく。兄との確執、元恋人たちとの未練。これらすべてが、トラララ=パットの存在によって解消される。しかし、それは本当の解消なのか。それとも、幻想による一時的な癒しなのか。

ラリユー兄弟は、この問いに明確な答えを与えない。むしろ、彼らは曖昧さを愛している。人間の感情は、常に曖昧である。愛と憎しみ、許しと恨み、それらは明確に分離できない。トラララがパットであるかないか、その曖昧さの中でこそ、真の和解が生まれる。

ルルドという舞台の意味 奇跡と欲望の聖地

ルルドは、カトリックの聖地である。聖母マリアが出現したとされるこの地には、毎年数百万人の巡礼者が訪れる。病気の治癒を求めて、人々は泉の水を飲む。しかし、ラリユー兄弟は、このルルドを単なる宗教的な場所としては描かない。

ルルドは、欲望の場所でもある。土産物屋、ホテル、観光客。聖なるものと俗なるものが入り混じる。トラララもまた、聖と俗の境界を揺れ動く。彼は、聖母に導かれてルルドに来た。しかし、彼がそこで見つけたのは、世俗的な人間関係である。

ラリユー兄弟は、『描くべきか愛を交わすべきか』(2005年)以来、欲望とセクシャリティを独特のアプローチで探求してきた。本作でも、その探求は続いている。聖なるものへの憧れと、肉体的な欲望。この二つは、対立するものではない。むしろ、それらは表裏一体である。

結論 ぎこちなさの中の多幸感

『トラララ』は、完璧な映画ではない。むしろ、その「ぎこちなさ」こそが、この映画の魅力である。コロナ禍という特殊な状況下で撮影されたこの映画には、妙なぎこちなさが漂う。しかし、そのぎこちなさは、心地よい。

接触が禁止された時代を、この映画はすり抜けていく。マスクをつけた人々の中で、トラララは歌い、踊り、そして他者と触れ合う。それは、パンデミックへの抵抗であり、同時に、人間性の肯定である。

「自分自身であってはならない」。この逆説的なメッセージは、私たちに何を問いかけるのか。それは、固定されたアイデンティティからの解放であり、他者になることの可能性であり、そして多幸感への道である。トラララは、誰かになることで、初めて自由になる。この矛盾こそが、人間存在の本質なのかもしれない。

ラリユー兄弟の映画は、常に驚きと楽しさを与えてくれる。『トラララ』もまた、その系譜に連なる傑作である。2026年現在、本作の日本での劇場本公開は実現していないが、いつか多くの観客がこの不思議な映画に出会えることを願ってやまない。

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2026年1月31日 ユーロスペースにてマチュー・アマルリックとZOOMトーク 聞き手:坂本安美

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