【第3055回】たった2本で日本映画史に刻まれた伝説:長谷川和彦『太陽を盗んだ男』作品評

旧作評
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2026年1月31日、長谷川和彦監督が80歳で逝去した。訃報を受けて、昨日、久しぶりに『太陽を盗んだ男』(1979年)を見返した。この映画を初めて見たのは何年前だったか。あの時感じた高揚感と虚無感の奇妙な混在が、今も変わらず画面から溢れ出してくる。いや、むしろ時間が経ったことで、この映画が持つ「祝祭の後の空虚さ」が、より切実に迫ってくるようになった。

長谷川和彦は、生涯でたった2本の映画を撮った。前作『青春の殺人者』(1976年)から3年後に公開された本作は、前作の重苦しさとは対照的に、エンターテイメント性を全面に押し出した作品である。しかし、その娯楽性の奥底には、前作と同じ虚無が横たわっている。本作は、キネマ旬報ベストワン(1979年度2位)に選ばれながらも興行的には失敗し、その後、長谷川は47年間一本も映画を撮ることができなかった。この「最初で最後の娯楽大作」は、何を残したのか。

中学教師が原爆を作る狂気の物語

物語は荒唐無稽である。中学校の理科教師・城戸誠(沢田研二)は、ある日突然、自宅で原子爆弾を製造することを思いつく。プルトニウムを再処理工場から盗み出し、独学で核兵器を完成させる。そして、政府を脅迫する。「プロ野球の巨人戦を中継しろ」「ローリング・ストーンズの日本公演を実現しろ」。要求は次第にエスカレートし、警視庁の山下刑事(菅原文太)との奇妙な追跡劇が始まる。

この設定だけを聞けば、バカバカしいB級映画に聞こえる。しかし、長谷川和彦は、このバカバカしさを大真面目に撮った。城戸がプルトニウムを盗む場面、自宅アパートで原爆を組み立てる場面、政府に電話をかけて脅迫する場面。これらは、すべて現実的なディテールで描かれている。長谷川は、徹底的に取材し、実際に原爆を作ることが可能であることを証明してみせた。この「本気でバカをやる」姿勢が、本作の最大の魅力である。

沢田研二という爆弾 ロックスターが演じる虚無

沢田研二が演じる城戸誠は、狂気と冷静さが同居した不思議な人物である。彼は原爆を作るが、それで世界を滅ぼそうとしているわけではない。政府を脅迫するが、金が欲しいわけでもない。彼が求めているのは、「何か」である。その「何か」が何なのか、城戸自身も分かっていない。

沢田研二は、当時絶頂期のロックスターだった。ジュリーのカリスマ性を、長谷川は見事に利用している。城戸は、教師という地味な職業に就きながら、内側にロックスターのような狂気を秘めている。彼がアパートの一室で原爆を作りながら、ラジオから流れるロックに合わせて体を揺らす場面は、本作を象徴するシーンである。彼は、退屈な日常と狂気の祝祭の間を、軽やかに行き来している。

しかし、沢田研二の表情には、常に虚無が漂っている。彼は笑っているようで笑っていない。楽しんでいるようで楽しんでいない。原爆を作り、政府を脅迫し、マスコミを騒がせても、彼の内側は空っぽである。この空虚さが、1970年代後半の日本社会そのものを体現している。

菅原文太という執念 刑事が追うのは犯人か、自分自身か

菅原文太が演じる山下刑事は、城戸を追い続ける。しかし、物語が進むにつれて、彼が追っているのは城戸ではなく、自分自身の何かであることが明らかになる。山下は、城戸に共感している。いや、羨ましがっている。自分にはできない「狂気の実行」を、城戸はやってのけた。山下は、城戸を逮捕することで、自分の中の狂気を封じ込めようとしている。

菅原文太の演技は、抑制されている。彼は怒鳴らないし、暴れない。ただ、じっと城戸を見つめ、追い続ける。その執念は、恋愛にも似ている。山下と城戸の関係は、警察と犯人という枠を超えて、互いに引き寄せられる二つの魂の物語になっている。

昨日、久しぶりに本作を見返して、菅原文太の凄まじさに改めて圧倒された。彼は、ただそこに立っているだけで、戦後日本の重さを背負っている。山下は、高度経済成長期を生き延びた男である。真面目に働き、社会のルールを守り、しかし何も得られなかった。そんな男の無念が、菅原文太の背中から滲み出ている。

池上季実子という狂気 何を求めているのか分からない女

池上季実子が演じるラジオDJ・零子は、本作で最も謎めいた存在である。彼女は城戸に惹かれ、彼の犯罪に加担するが、その動機は不明である。彼女が求めているのは愛なのか、スリルなのか、それとも別の何かなのか。長谷川和彦は、明確な答えを示さない。

零子は、城戸に「あなたは何がしたいの?」と問う。しかし、その問いは、城戸だけでなく、零子自身にも向けられている。彼女もまた、自分が何を求めているのか分からない。この「分からなさ」が、1970年代後半の若者たちの感覚を代弁している。

池上季実子の存在は、本作において唯一の「情動」である。しかし、その情動は整理されず、混沌としている。彼女が城戸と一緒に逃げる場面、原爆を抱えて笑う場面、これらは美しくもあり、狂気じみてもいる。

長谷川和彦の演出 過剰なまでのエネルギー

長谷川和彦の演出は、前作『青春の殺人者』の静謐さとは正反対である。本作は、過剰なまでにエネルギッシュだ。カメラは動き回り、音楽は鳴り響き、色彩は溢れている。城戸がプルトニウムを盗む場面、警察との追跡劇、野球場でのシーン、これらはすべて、大作映画のように派手に撮られている。

しかし、その派手さの奥底には、深い虚無がある。長谷川は、エンターテイメントを撮りながら、その空虚さを暴いている。原爆を作ることも、政府を脅迫することも、巨人戦を見ることも、ローリング・ストーンズを聴くことも、すべて等価である。何をやっても、虚無は埋まらない。この絶望的な認識が、本作の底流にある。

特に、クライマックスの野球場のシーンは圧巻である。数万人の観客が野球を見ている中で、城戸は原爆を抱えて立っている。彼は、この場所を爆破することができる。しかし、彼はしない。なぜなら、爆破したところで、何も変わらないからだ。この「何も変わらなさ」の認識こそが、本作の核心である。

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キネ旬2位の評価 しかし興行は失敗

本作は、1979年度のキネマ旬報ベストワンで2位に選出された。批評家たちは、本作の野心とエネルギーを高く評価した。しかし、興行的には失敗だった。観客は、この奇妙な映画を受け入れなかった。原爆をテーマにしながらコメディのように撮られた作品は、当時の観客には理解されなかった。

しかし、時間が経つにつれて、本作は再評価されていった。2012年の「オールタイムベスト・日本映画編」では、1970年代日本映画のトップに選ばれている(『青春の殺人者』と共に)。それは、本作が単なる「問題作」ではなく、時代を超えた普遍性を持つ作品だからである。

昨日、長谷川和彦の訃報を聞いて、改めて本作を見返した。そして、この映画が今もなお生々しく、エネルギッシュで、そして空虚であることに気づいた。長谷川和彦は、この一本で、1970年代の虚無を、エンターテイメントという形で完璧に結晶化させた。

村上龍との幻の企画 『笑う原爆』が撮られなかった無念

本作の後、長谷川和彦は村上龍とのコラボレーションを模索した。村上龍は、5本の脚本を書いた。その中には『コインロッカー・ベイビーズ』の原型となった脚本も含まれていた。しかし、長谷川は一本も採用しなかった。彼には、「撮りたい映画」があったのだ。

その一つが、『笑う原爆』という企画だった。タイトルからして、本作『太陽を盗んだ男』の延長線上にある作品であることが窺える。しかし、この企画は実現しなかった。長谷川和彦は、その後47年間、一本も映画を撮ることができなかった。

なぜ彼は撮れなかったのか。資金がなかったのか、企画が通らなかったのか、それとも彼自身が撮りたい映画を見つけられなかったのか。真相は分からない。しかし、長谷川和彦という監督が、『太陽を盗んだ男』で燃え尽きてしまったことは確かである。

たった2本で日本映画史に刻まれた伝説

長谷川和彦は、たった2本の映画で、日本映画史に消えない足跡を残した。『青春の殺人者』と『太陽を盗んだ男』。この2本は、まったく異なる作風でありながら、同じテーマを共有している。それは、「逃れられなさ」である。

『青春の殺人者』のジュロは、家族という円から逃れられなかった。『太陽を盗んだ男』の城戸は、虚無から逃れられなかった。彼らは、狂気に走ることで、何かを変えようとした。しかし、何も変わらなかった。この絶望的な認識を、長谷川和彦は二つの異なる形で描いた。

昨日、久しぶりに本作を見返して、改めて長谷川和彦の才能の凄まじさを思い知った。同時に、彼がその後一本も映画を撮れなかった無念を思った。しかし、彼はこの2本で、充分すぎるほどのものを残した。

結論 祝祭の後に残るのは、空虚だけである

『太陽を盗んだ男』が突きつけるのは、「祝祭の後に残るのは、空虚だけである」という残酷な真実である。城戸は原爆を作り、政府を脅迫し、巨人戦を見て、ローリング・ストーンズを聴いた。しかし、すべてが終わった後、彼の手には何も残らなかった。

この構造は、現代においても変わらない。私たちは、何かを求めて走り続けるが、それが手に入っても、虚無は埋まらない。長谷川和彦は、45年前にこの真実を完璧に描き切った。

本作は、エンターテイメントとして最高に面白い。しかし、その面白さの奥底には、深い虚無がある。この二重性こそが、長谷川和彦の天才性である。彼は、笑いながら絶望を描くことができた。そして、それをやってのけた後、彼自身も燃え尽きてしまった。

長谷川和彦監督のご冥福を心よりお祈りします。

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