2026年1月31日、映画監督の長谷川和彦が、誤嚥性肺炎による多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。80歳だった。『青春の殺人者』(1976年)、『太陽を盗んだ男』(1979年)。たった2本の映画で日本映画史に伝説を刻んだ男は、しかし、その後47年間、一本も映画を撮ることなく逝った。

30歳の新鋭 異例のキネマ旬報ベスト・ワン
1976年、長谷川和彦は30歳で監督デビューした。ATGの多賀祥介に見出され、中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』は、水谷豊主演で、家族という牢獄に囚われた青年の狂気を描いた。本作は、その年のキネマ旬報ベスト・ワンに選ばれた。新人の第1回作品がベスト・ワンになるのは異例であった。「30歳の新鋭映画監督登場」「ニューシネマの旗手」として、長谷川は一躍時代の寵児となった。
相米慎二は「長谷川は映画を動かす時代の始まりだった」と述べている。ATGの二代目社長・佐々木史朗は「若手監督と仕事をしたいと回りを見渡したとき、ゴジしかいなかった。孤軍奮闘というか、一人で戦争をやっているような感じだった」と語っている。長谷川に引っ張られるように、次々に映画界に若手監督がデビューした。彼は、時代の先頭に立っていた。

『太陽を盗んだ男』 沢田研二、菅原文太、そして核爆弾
1979年、長谷川の第2作『太陽を盗んだ男』が公開された。中学校教師がプルトニウムを盗み出し、自宅で原子爆弾を製造、政府を脅迫するという荒唐無稽な物語。沢田研二演じる教師と菅原文太演じる刑事の対決を、娯楽映画として描き切った本作は、第53回キネマ旬報ベスト・テン第2位、同誌読者投票第1位と高評価を受けた。
しかし、興行的には振るわなかった。この映画が当たらなかったことは、当時の独立系の映画製作者にとってショックが大きかった。それでも、本作は長らくカルト映画の位置付けであったが、その後一般的な評価が高まり、映画誌などで日本映画史上歴代ベストテンにも挙げられ、20世紀を代表する日本映画と評されるようになった。キネマ旬報が選ぶ1970年代日本映画ベストテンでは、第1位に選ばれている。

村上龍の5本の脚本を拒否 『笑う原爆』は幻に
長谷川は、『太陽を盗んだ男』の後も、精力的に次回作の準備を進めていた。キティレコードが、長谷川のために映画製作部門としてキティ・フィルムを設立。当時、『限りなく透明に近いブルー』で作家デビューしたばかりの村上龍と共に次回作に取り組んだ。村上は、長谷川のために5本の脚本を書いた。しかし、長谷川は乗り気にならなかった。村上は企画を離れ、没脚本を元に小説『コインロッカー・ベイビーズ』を執筆する。
長谷川は、新たな脚本家としてレナード・シュレイダーと組み、さらに助監督の相米慎二や黒沢清も執筆に参加し『笑う原爆』と題した脚本を完成させた。しかし、この企画も実現しなかった。以後、長谷川は一本も映画を撮ることなく、時が過ぎていった。
期待をことごとく裏切り続けた47年間
長谷川和彦の名前は、その後も何度も映画誌に登場した。「新作準備中」「企画進行中」「近日クランクイン」。しかし、そのどれもが実現しなかった。2015年には、キネマ旬報4月下旬号に「長谷川和彦監督新作プロジェクト」における企画アイデアの募集告知が掲載されたが、やはり実現には至らなかった。
たった2本の映画で伝説になった男は、その期待をことごとく裏切り続けた。映画ファンは、長谷川の新作を待ち望んだ。しかし、彼は決して撮らなかった。いや、撮れなかったのだ。何が彼を阻んだのか。完璧主義か、資金の問題か、それとも時代との齟齬か。理由は定かではない。しかし、結果として、彼は47年間、一本も映画を撮らなかった。
「幻の監督」の無念
長谷川和彦は、「幻の監督」と呼ばれた。パートナーの室井滋が喪主を務め、近親者で葬儀を行う予定だという。後日、お別れの会が開かれる。
『太陽を盗んだ男』の次を撮れなかった無念。それは、長谷川自身の無念であると同時に、日本映画界の無念でもある。もし、彼が3本目、4本目を撮っていたら、日本映画の風景は違っていたかもしれない。しかし、歴史に「もしも」はない。
長谷川和彦は、たった2本の映画で、日本映画史に確かな足跡を残した。『青春の殺人者』は家族の暴力を、『太陽を盗んだ男』は個人と国家の対決を、それぞれ鮮烈に描いた。この2本は、今も輝き続けている。
しかし、その後の47年間の沈黙もまた、長谷川和彦という映画監督の一部である。期待を裏切り続けたこと、撮らなかったこと、撮れなかったこと。それもまた、彼の映画人生だった。
合掌。


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