
年が明けた1月の末日。アテネフランセにおける中原昌也の白紙委任状が数年振りに奇跡的にカムバックを果たした。当の代表である中原昌也氏の体調を「お元気そうで何より」とはとても言い難い。一時期よりは顔色は良くなったように見受けられるが、介助者の助けなくしてはとても壇上に上がれるものではない。それでも「お帰りなさい」と言いたいのは、この中原昌也の白紙委任状こそは、ロスト・アメリカ的な誰もが観られなくなったプログラムをみんなで楽しむという原初的な映画祭の原理を、今再び令和の世に問うという画期的でシネフィル的なプログラムだからである。私は6年半前の第一回の白紙委任状で今作を観ていたので2度目の鑑賞なのだが、ロスト・アメリカと言いつつも今のアメリカ社会の病理との奇妙な符号に再び肝を冷やした。
1979年、ジョン・ヒューストンは73歳にして、おそらく彼のキャリアの中で最も異質な作品を生み出した。それが『ワイズ・ブラッド』(Wise Blood)である。フラナリー・オコナーの1952年の小説『賢い血』を原作とするこの106分のブラックコメディは、アメリカ南部の狂信的なキリスト教世界を、容赦ない視線で描き出す。日本では劇場未公開という不遇を受けたこの映画は、しかし、ヒューストン晩年の最高傑作の一つである。
フラナリー・オコナーという怪物 南部ゴシックの極北
フラナリー・オコナーは、アメリカ南部文学を代表する作家である。彼女の小説は、グロテスクで、暴力的で、そして深く宗教的である。『賢い血』は、彼女の長編デビュー作であり、最も過激な作品の一つである。
物語の主人公は、ヘイゼル・モーツという若い退役軍人である。彼は、トルキンハムという小都市に辿り着き、「キリストなきキリストの教会」を一人で設立しようと奮闘する。しかし、その試みは挫折し、最後には自らの両目を突いて盲目となる。
この物語は、オコナーが抱くカトリック教会への独自の見解を反映している。しかし、それは単純な宗教批判ではない。むしろ、それは信仰の不在が生む狂気の肖像画である。ヘイゼル・モーツは、神を否定することで自由になろうとする。しかし、その否定自体が、彼を神の呪縛から逃れられなくしている。
ブラッド・ドゥーリフという憑依 血走った眼の狂信者
ヘイゼル・モーツを演じるのは、ブラッド・ドゥーリフである。当時33歳のドゥーリフは、『カッコーの巣の上で』(1975年)でアカデミー助演男優賞にノミネートされた実力派俳優である。しかし、本作での彼の演技は、それまでのどの作品をも凌駕している。
ドゥーリフの眼は、常に血走っている。彼の身体は、常に緊張している。彼の声は、常に怒りに満ちている。彼は、ヘイゼル・モーツという狂人に完全に憑依している。この演技は、「事実上神聖」と評されるほどである。
ヘイゼルは、不器用で、真っ直ぐで、そして救いようがない。彼は嘘がつけない。彼は妥協ができない。だからこそ、彼は破滅する。ドゥーリフは、この人物の悲劇性と滑稽さを、同時に体現している。彼の演技を見るだけでも、この映画は価値がある。
ハリー・ディーン・スタントンという存在感 偽預言者ホークス
もう一人、重要な俳優がいる。それは、ハリー・ディーン・スタントンである。彼が演じるのは、ホークスという偽の盲目の預言者である。ホークスは、街角で説教をし、金を集めている。しかし、彼は実際には目が見える。
ヘイゼルは、このホークスに執拗につきまとう。彼は、ホークスの偽善を暴こうとする。そして、マッチ棒を突きつけ、無慈悲な仕打ちをする。このシーンは、本作で最も印象的な場面の一つである。
スタントンは、卑屈で、狡猾で、そして哀れな男を演じる。彼の存在感は、ドゥーリフに引けを取らない。二人の対決は、真の狂信者と偽の預言者の対決である。そして、皮肉なことに、偽者の方が生き延びる。

ジョン・ヒューストンという異端 「男性作家」からの逸脱
ジョン・ヒューストンは、『マルタの鷹』(1941年)、『黄金』(1948年)、『アフリカの女王』(1951年)といった男性的な冒険映画の監督として知られている。しかし、『ワイズ・ブラッド』は、そのイメージとは全く異なる。
この映画には、英雄がいない。冒険もない。カタルシスもない。あるのは、ただ狂気と挫折と自己破壊である。これは、ヒューストンにとって、極めて異例の作品である。おそらくだからこそ、この映画は日本で劇場未公開という扱いを受けたのだろう。
しかし、晩年のヒューストンは、このような「扱いづらい」作品に惹かれていた。『火山のもとで』(1984年)、そして遺作となる『ザ・デッド”ダブリン市民”より』(1987年)。これらの作品は、いずれも内省的で、静謐で、そして絶望的である。ヒューストンは、老いとともに、人間の内面へと潜っていった。
ジョージア州メーコンという地獄 アメリカ南部の狂気
本作は、ジョージア州メーコンとその周辺で撮影された。これは、オコナーの故郷であるアンダルシアの近くである。撮影には、多くの地元住民がエキストラとして参加した。
この土地の選択は、重要である。アメリカ南部は、キリスト教の呪縛が最も強い地域である。バイブルベルトと呼ばれるこの地域では、宗教は日常生活の一部である。しかし、その宗教は、しばしば歪んだ形をとる。
ヘイゼルが出会う人々は、皆どこかおかしい。説教師、娼婦、詐欺師、そして純真な少女。彼らは、それぞれに宗教に囚われている。そして、その囚われ方が、彼らを狂わせている。
本作は、この狂気を、笑いながら描く。それは、ブラックコメディである。しかし、その笑いは、極めて不快である。なぜなら、それは私たち自身の狂気を映し出しているからだ。
崩壊する車という象徴 ヘイゼルの人生の終焉
ヘイゼルは、ボロボロの中古車を買う。彼は、この車を愛している。彼は、この車で街中を走り回り、「キリストなきキリストの教会」を説教する。この車は、ヘイゼルの自由の象徴である。
しかし、やがて車は壊れる。警官は、崖から車を突き落とす。車は、無残に破壊される。そして、ヘイゼルもまた、破壊される。この車の死は、ヘイゼルの人生の終焉を予告している。
ラストシーン、ヘイゼルは自らの目を突く。有刺鉄線を体に巻きつけ、苦行を続ける。彼は、もはや「キリストなきキリスト」を説かない。彼は、沈黙の中で、神と対峙する。この結末は、救いがない。しかし、ある種の純粋さがある。
アレックス・ノースの音楽 不穏な旋律が支配する世界
音楽を担当したのは、アレックス・ノースである。彼は、『欲望という名の電車』(1951年)や『スパルタカス』(1960年)で知られる作曲家である。本作での彼の音楽は、極めて不穏である。
旋律は、常に不安定である。リズムは、常に緊張している。この音楽は、観客を安心させない。むしろ、観客を不快にさせる。それは、この映画が描く世界そのものである。
カンヌからニューライン・シネマへ 異色作の流通
本作は、カンヌ国際映画祭で上映された後、ニューライン・シネマが米国での配給を引き受けた。ニューライン・シネマは、後に『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズを配給することになる会社だが、当時はまだ小規模な独立系配給会社だった。
この配給ルートは、本作の異色さを物語っている。メジャースタジオは、この映画を扱いたがらなかった。それは、商業的な価値がないと判断されたからだ。しかし、カルト映画として、本作は徐々に評価を高めていった。
Rotten Tomatoesでは、現在87%という高い評価を得ている。Time Outは、本作を「悲劇的に、必死に面白い」と評し、「ジョン・ヒューストンの長年の最高の映画」と呼んだ。この評価は、正当である。
結論 唯一無二の神なき神の御業
『ワイズ・ブラッド』は、唯一無二の映画である。神なき世界における神の御業を描いた、この映画に匹敵する作品は存在しない。ポール・トーマス・アンダーソンも、この高みには到達できないと評される。
フラナリー・オコナーは、神を信じていた。しかし、彼女が描くのは、神の不在が生む狂気である。ジョン・ヒューストンは、おそらく神を信じていなかった。しかし、彼が描くのは、神から逃れられない人間の悲劇である。
この矛盾が、本作を豊かにしている。『ワイズ・ブラッド』は、宗教映画であり、同時に反宗教映画である。それは、信仰の肯定であり、同時に信仰の否定である。この曖昧さこそが、本作の本質である。
それこそ6年半前は確か、ポール・シュレイダーの『魂の行方』の参照源として今作は輝きを放った。ロベール・ブレッソンの傑作『田舎司祭の日記』との比較をもってしても、2019年時点でポール・シュレイダーの『魂の行方』との横断的な批評は極めて大きな視座を有したのは紛れもない事実である。
2026年現在、本作は日本では依然として劇場未公開である。しかし、DVDやストリーミングで視聴可能である。もし、あなたがアメリカ南部の狂気を、そしてヒューストン晩年の到達点を知りたいのなら、この映画を見るべきである。それは、決して快適な体験ではない。しかし、それは忘れられない体験である。そしてただ単に退院しただけと嘯く中原昌也氏の本イベントの復活に拍手を。ロスト・アメリカあるいはロスト・ヨーロッパへの極めて現代的な批評性こそが当イベントの魅力なのである。



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