2026年を象徴するつまらなさ:ティムール・ベクマンベトフ『MERCY/マーシー AI裁判』における想像力の欠如と身体性の喪失

新作評
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ティムール・ベクマンベトフ監督の『MERCY/マーシー AI裁判』(2026年)は、2026年という年を象徴する映画である。それは、本作が優れているからではない。逆に、本作が抱える問題こそが、2020年代後半のハリウッド映画、そして現代の映画製作が直面している構造的な行き詰まりを如実に示しているからだ。クリス・プラット主演、レベッカ・ファーガソン共演、チャールズ・ローヴェン製作という豪華なスタッフ陣を擁しながら、本作は致命的な欠陥を抱えている。それは、想像力の欠如と、アクションが動かないことの不自由さである。

スクリーンライフという制約が生む身体性の喪失

本作の最大の問題は、スクリーンライフという表現手法が、アクション映画としての本作を根本的に制約していることである。スクリーンライフとは、PC画面やスマートフォンの画面上の操作で物語を展開させる手法であり、ベクマンベトフ自身が『search/サーチ』(2018年)のプロデューサーとして成功を収めた表現である。

しかし、『search/サーチ』は行方不明の娘を探す父親の物語であり、本質的に静的な探索劇だった。主人公が座ったままPCを操作し、娘の行方を追う。その制約の中で緊張感を生み出すことに成功した。ところが本作は、「リアルタイム型アクションスリラー」を標榜している。90分の制限時間内に無実を証明しなければ即処刑という設定は、本来ならば主人公が走り回り、証拠を集め、人と対峙する動的な物語を要求する。

だが、レイヴン(クリス・プラット)は拘束されており、自由に動けない。彼ができるのは、AI裁判官マドックス(レベッカ・ファーガソン)と対話し、デバイスを操作してデータベースを検索することだけである。つまり、アクションが動かない。身体が動かない。クリス・プラットという、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』『ジュラシック・ワールド』で縦横無尽に動き回る俳優を起用しながら、彼を椅子に縛り付けておく。これは資源の無駄遣いである以上に、映画という視覚メディアの本質を見失っている。

映画の魅力の一つは、身体性である。俳優が走り、跳び、戦う。その身体の動きが、観客の感情を揺さぶる。しかし、本作においてクリス・プラットの身体は、ほとんど機能していない。彼の演技は「限られた空間の中で、焦燥、恐怖、決意といった複雑な感情を表現している」と評価することもできるが、それは演劇的な演技であり、映画的な身体性ではない。

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想像力の欠如 技術決定論的な世界観の薄っぺらさ

本作のもう一つの致命的な欠陥は、想像力の欠如である。これは二つの意味で言える。第一に、AI裁判という近未来設定に対する想像力の欠如。第二に、その設定を映画的に表現する想像力の欠如。

まず、AI裁判という制度設計が、あまりにも荒唐無稽である。「AIが判事として人間を裁けるほど進化することと、推定有罪・90分で自力弁護・容疑をひっくり返せなければ即死刑となるほど人権皆無なディストピア司法が採用されることとの間に、かなりの飛躍がある」という観客の指摘は、まさに核心を突いている。

AI技術が進化したからといって、なぜ人権概念が完全に消滅するのか。なぜ弁護士制度が廃止されるのか。なぜ被告人自身が捜査を行わなければならないのか。これらの疑問に対して、本作は何の説明も提示しない。ただ「凶悪犯罪が増加した」という漠然とした背景があるだけだ。これは、技術決定論的な短絡である。新しいテクノロジーが登場すれば、社会はそれに合わせて変化する、という単純な因果関係。しかし、現実の社会変化はもっと複雑であり、技術と制度と文化と権力の相互作用の中で起きる。

本作の世界観は、その複雑さを想像する努力を放棄している。AI裁判という設定は、単なるプロット上の装置として機能しているだけで、その社会的・倫理的含意は掘り下げられない。「人権の消滅とともに個人情報保護の概念もなかったことになっていて、犯罪の容疑をかけられた人間がネット上のあらゆる個人情報を見放題」という状況も、都合良く設定されているだけで、なぜそうなったのかの説明はない。

これは、2020年代のSF映画が陥りがちな罠である。テクノロジーの進化を外挿することはできても、それが社会にどのような影響を与えるかを想像することができない。AIという流行のテーマを取り上げながら、その本質的な問いに踏み込まない。結果として、本作は薄っぺらい。

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「逆転裁判」的ゲーム性への逃避

本作は、リアルなディストピアSFとして機能しないことを自覚しているかのように、「逆転裁判」的なゲーム性に逃避する。「国中のデータにアクセスできる代わりに90分で無罪を立証しないと死刑という、内にも外にも問題しか無いような制度が逆転裁判を思い出す感じで面白い」という肯定的な評価もある。

確かに、本作をゲーム的な体験として楽しむことは可能だろう。データベースから証拠を探し、有罪率を下げていく。その過程で展開は「二転三転する」。「テンポがよく、情報量が多く」、90分という制限時間がリアルタイムで進行する緊張感もある。

しかし、これは映画としての敗北宣言ではないか。映画がゲームのシミュレーションに堕している。そして、そのゲーム性すら、説得力を欠いている。なぜなら、本作の「裁判」は裁判ではなく、「被告人による捜査(推理?)」だからだ。「裁判と言いつつ弁護士がいない」という矛盾は、作品の核心を揺るがす。

レイヴンは刑事である。だから捜査ができる。しかし、普通の市民が同じ状況に置かれたらどうなるのか。彼らは90分で無実を証明できるのか。この制度は、捜査能力を持つ者だけが生き延びられる、極めて不公平なシステムである。しかし、本作はその不公平性を批判的に描くことはない。ただ、レイヴンというヒーローが困難を乗り越える物語として消費される。

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アクションが動かないことの不自由さ 2020年代映画の停滞

アクションが動かない。これは本作だけの問題ではない。2020年代のハリウッド映画全体が直面している問題である。コロナ禍を経て、映画製作は大きく変化した。リモート撮影、VFXへの依存、限定的なロケーション。そして、スクリーンライフという手法もまた、その流れの中にある。

スクリーンライフは、低予算で効率的に映画を作ることができる。俳優を一つの部屋に閉じ込め、画面を撮影するだけでいい。大掛かりなアクションシーンも、ロケーションも必要ない。しかし、その効率性の代償として、映画は身体性を失う。

ベクマンベトフは『ウォンテッド』(2008年)で、弾丸が曲がるという荒唐無稽な設定を、圧倒的なビジュアルで説得力あるものにした。それは、身体が動くアクション映画だった。しかし、本作で彼が見せるのは、デバイスの画面が動くだけである。これは、アクション映画監督としての敗北である。

「大好きIMAX3Dで こんな未来が来る日も近いのか!と技術にワクワクしながらもストーリーもしっかりしていて良かった」という肯定的な評価もある。確かに、IMAXで観れば、画面の情報量は圧倒的だろう。しかし、それは技術的な達成であって、映画的な達成ではない。いくら画面が大きくても、そこに映っているのはPC画面の操作なのだから。

アクションが動かないことの不自由さは、観客の体験にも影響する。我々は、主人公とともに走りたい。跳びたい。戦いたい。映画館で映画を観るという体験は、ある種の身体的な共感である。しかし、主人公が椅子に縛られていたら、我々もまた縛られる。その不自由さは、カタルシスを生まない。

2026年を象徴するつまらなさ 創造性の枯渇

『MERCY/マーシー AI裁判』が2026年を象徴するのは、この作品が、現代ハリウッド映画の創造性の枯渇を凝縮しているからである。

豪華なスタッフ陣、流行のテーマ(AI)、実績ある表現手法(スクリーンライフ)、リアルタイム90分というギミック。これらすべては、過去の成功例の組み合わせである。しかし、それらを組み合わせれば傑作が生まれるわけではない。むしろ、各要素が互いに足を引っ張り合っている。

スクリーンライフはアクションを殺す。AI裁判という設定は想像力の欠如を露呈させる。リアルタイム90分は緊張感を生むが、同時に物語の深みを犠牲にする。そして、クリス・プラットという俳優の身体性は、完全に浪費される。

「個人的には全くハマらず」「事件の調査も裁判もガバガバ。目が覚めてそこから1時間半無罪を証明せよ(実際には有罪率を一定以下に下げる)とか現実味がない」という批判は、作品の核心的な問題を指摘している。本作は、リアリティを追求するには設定が荒唐無稽すぎ、純粋な娯楽作品として楽しむには中途半端すぎる。

2020年代のハリウッド映画は、アベンジャーズ・サーガの終焉以降、次なる方向性を見出せずにいる。IP(知的財産)の再利用、続編・リブートの乱発、VFXへの過度な依存。そして、新しい試みとして持ち上げられる手法も、結局は制約の中で効率的に映画を作るための方法論でしかない。

本作は、その停滞の象徴である。新しいものを作ろうとするのではなく、既存の成功パターンを組み合わせて「それらしいもの」を作る。しかし、創造性とは、既存の要素の組み合わせではなく、想像力の飛躍から生まれる。本作には、その飛躍がない。

結論 身体性と想像力の回復を

『MERCY/マーシー AI裁判』は、2026年のハリウッド映画が直面している問題を凝縮した作品である。想像力の欠如、アクションが動かないことの不自由さ、創造性の枯渇。これらは、技術と効率性を優先した結果生まれた問題である。

映画は本来、身体性と想像力の芸術である。俳優の身体が動き、その動きが物語を紡ぐ。そして、映画作家の想像力が、観客をまだ見ぬ世界へと連れて行く。しかし、本作にはそのどちらもない。クリス・プラットは椅子に縛られ、ベクマンベトフの想像力は技術決定論的な世界観を超えられない。

本作を観た後に残るのは、つまらなさである。それは、退屈というよりも、虚無感に近い。90分間、画面を見続けたが、何も残らない。それは、本作が映画としての本質的な喜びを提供していないからだ。

映画が再び輝きを取り戻すためには、身体性と想像力の回復が必要である。効率性や技術ではなく、人間の身体と心を中心に据えた映画。そして、既存のパターンの組み合わせではなく、真に新しいビジョンを提示する映画。本作は、その対極にある。だからこそ、2026年を象徴するつまらなさなのである。

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