同性愛を匂わせるだけの繊細さ:クロード・シャブロル『女鹿』作品評

旧作評
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クロード・シャブロル監督の『女鹿』(原題:Les Biches、1968年)は、シャブロルのキャリアにおける転換点であり、再生の物語である。キャリアに行き詰まっていた監督が、盟友ポール・ジェゴフとともに自身の代表作『いとこ同志』(1959年)のプロットを男女逆転させ、同性愛的な関係性を匂わせながら再構築したこの作品は、第18回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞し、1960年代後半から70年代にかけてのシャブロルの黄金期の幕開けを告げることになる。ステファーヌ・オードランとジャクリーヌ・ササールという二人の女優が織りなす権力と欲望のゲームは、50年以上を経た今なお観る者を魅了し続けている。

セーヌ川の橋から始まる所有の物語

映画は、セーヌ川に架かるポン・デ・ザールの路面で牝鹿の絵を描いている娘ホワイ(ジャクリーヌ・ササール)に、黒いコートをまとった裕福な女フレデリーク(ステファーヌ・オードラン)が札を投げ与える場面から始まる。この冒頭の数分間だけで、シャブロルは映画全体の力学を提示している。施しを与える者と受け取る者。所有する者と所有される者。見る者と見られる者。

フレデリークは父親の遺産で気ままに暮らすブルジョワであり、ホワイは貧しい画家志望の娘である。二人は正反対の性格だが、ホワイは貧困に疲れ、フレデリークの好意に甘えて彼女の屋敷で暮らし始める。この関係は、表面的には友情あるいは庇護に見えるが、その本質は支配と従属である。

シャブロル自身が認めているように、この構図は『いとこ同志』の使い回しである。傲慢で堕落したブルジョワ階級と、貧しくも野心的な小市民。愛憎が入り混じる歪んだ人間関係。そして複雑怪奇な心の闇が招く殺人。ただし、『いとこ同志』では失敗に終わった下剋上が、『女鹿』では不条理な形で成功する。それは、狂気が生まれる瞬間の記録である。

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同性愛を匂わせるだけの繊細さ

この映画が1968年に作られたことは重要である。明確な同性愛描写はない。あくまでも匂わせるだけだ。しかし、その曖昧さこそが映画の強度を高めている。フレデリークとホワイの関係は、レズビアン的な親密さを持ちながら、同時に母娘的でもあり、姉妹的でもあり、主従関係でもある。この多義性が、観客に不安と魅惑を同時に与える。

ある観客は「物狂おしいとはこのことよ」と述べ、「男も女も、愛おしい人相手なら、どんなふうでも愛おしく、セクシーに思える」と評している。シャブロルは、性愛を描くのではなく、所有欲と支配欲を描いている。フレデリークがホワイを愛しているのか、それとも所有物として見ているのか。その境界は曖昧であり、おそらくフレデリーク自身にも分からない。

南仏サントロペという舞台

二人がフレデリークの別荘があるサントロペに移ると、そこにはロベールとリエという二人組の居候がいる。彼らはフレデリークに寄生する手下のような存在である。この設定は、フレデリークが支配者であり、彼女の周りには常に従属者がいるという権力構造を強調する。

サントロペの風景は、この映画に独特の質感を与えている。伸びやかな南仏の空気感。豪華な別荘。パーティ。しかし、その表面的な優雅さの下には、退廃と腐敗が潜んでいる。ブルジョワの世界は美しいが空虚であり、その空虚さが暴力を生む。

別荘で催されたパーティで、ホワイは建築家ポール(ジャン=ルイ・トランティニャン)に惹かれる。しかし、それを見たフレデリークはポールを誘惑し、関係を持つ。この行為は、単なる嫉妬ではない。それは、ホワイが望むものを奪い取ることによる支配の再確認である。

トランティニャンは、当時既にシャブロル夫人だったオードランの前夫である。この私生活との奇妙な符合は、映画に独特の緊張感を与えている。しかし、ある批評が指摘するように、トランティニャンは「色添え」的な役どころに過ぎない。この映画の真の主題は、二人の女の関係である。

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模倣から乗っ取りへの転換

物語が進むにつれて、ホワイはフレデリークを模倣し始める。仕草、話し方、服装。愛する者を模倣することは、ある種の同化願望である。しかし、シャブロルが描くのは、愛による模倣が憎しみによる乗っ取りへと変質する過程である。

ある批評は、この映画を「狂信的な母親に絶対支配されたノーマン・ベイツが狂気の淵へと追いやられ、サイコキラーとして覚醒するまでを描いたような作品」と評している。ヒッチコックの『サイコ』(1960年)との比較は示唆的である。ホワイは、フレデリークを愛するあまり彼女と一体化しようとするが、その一体化は殺人という形でしか達成されない。

フレデリークを殺したホワイは、見た目も仕草も声までもすっかりフレデリークに成り代わる。これは、単なる犯罪ではない。それは、被支配者が支配者を文字通り「取り込む」ことによる完全な下剋上である。一般的なミステリー映画であれば、殺人はストーリーの起点となるが、シャブロルはそこを最終地点とする。彼が関心を持っているのは、殺人事件の謎解きではなく、殺人に至る人間の心理である。

ステファーヌ・オードランという存在

この映画の成功は、ステファーヌ・オードランの存在なくしてあり得ない。シャブロル映画のミューズにして当時の夫人である彼女は、クールで妖艶で冷淡で支配的な女性を演じて輝く稀有な女優である。フレデリークは魅力的だが、同時に恐ろしい。彼女の微笑みには常に計算があり、彼女の優しさには常に支配欲が隠されている。

オードランの官能性は、露骨ではなく暗示的である。ある観客が「ボタン外すシーンめちゃめちゃエロい」と述べているように、シャブロルのエロティシズムは、見せることではなく見せないことによって成立している。抑えられた色調、計算されたカメラワーク、そしてオードランの身体。これらすべてが、濃密な官能性を生み出す。

一方、ジャクリーヌ・ササールは、この作品が最後の映画出演となった。繊細な危うさと抜け目ないしたたかさを併せ持つホワイを見事に演じたが、彼女は撮影時には既に女優引退を決意していた。翌年、大手自動車メーカー、ランチア創業家の御曹司と結婚し、映画界から去った。この事実は、ホワイというキャラクターに奇妙な共鳴を与える。ホワイもまた、ブルジョワの世界に「嫁いだ」からである。

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シャブロルの再生と飛躍

シャブロル自身が「自分の偉大なキャリアは『女鹿』で幕を開けた」と語っているように、この作品の成功は彼に大きな飛躍をもたらした。当初ゴダール映画でお馴染みの製作者ジョルジュ・ド・ボールガールと企画していたが、ボールガールが手を引いてからは宙ぶらりんの状態が続いた。最終的に引き受けたのは、当時まだ無名だったアンドレ・ジェノヴェである。

この映画の成功により、ジェノヴェもまた躍進した。これ以降、シャブロルはジェノヴェのプロデュースのもと、『不貞の女』『野獣死すべし』『肉屋』など、自分の撮りたい映画を自由に撮ることができるようになる。『女鹿』は、芸術的成功であると同時に、商業的成功でもあった。

結論として、『女鹿』は支配と被支配、愛と憎しみ、模倣と乗っ取りという主題を、ブルジョワ批判と同性愛的関係性の中で探求した、分類不能で不可思議な作品である。シャブロルは謎解きミステリーを撮ることを拒否し、人間の心の闇の奥深くを覗き込もうとした。そして、その試みは見事に成功している。2026年に日本で劇場公開されるこの作品は、1968年の時点で既に驚くほど現代的であり、権力関係の暴力性について今なお鋭い問いを投げかけている。

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