逆流する階層寓話とノアの箱舟  『大洪水』批評

配信映画評

ソウルのマンションで、AI研究者のアンナは幼い息子ジャインと暮らしている。ある朝、室内に水が入り込んでいることに気づき、窓の外を見て周囲一帯がすでに水没していると知る。館内放送や人々の混乱のなか、低層階に住むアンナはジャインを連れて上階へ避難しようとするが、廊下も階段も渋滞し、判断が遅れるほど水位が追い上げてくる。やがて研究所の保安チーム所属だというソン・ヒジョが接触してくる。彼はこれが局地的な浸水ではなく人類規模の災厄だと告げ、アンナを救出する任務で来たと名乗る。しかし安全地帯へ向かうには、ジャインを連れていけないという非情な条件が付く。アンナは人類の未来と目の前の子の板挟みにされ、上へ上へと追い詰められる。ここまでは、閉鎖空間(高層アパート)で水が下から迫る構造が自然に人間同士の衝突や選別を生む王道のディザスター映画となる。しかも垂直の空間は、韓国映画が得意としてきた「上/下」の階層寓話にそのまま接続できる。『パラサイト 半地下の家族』が上から下へ流れることで経済格差を可視化したのに対し、本作は下から上へと水が逆流する。つまり格差の秩序そのものが、文字通り転倒していく。B級映画的な快楽としてはこの時点でかなり巧い。私は一瞬、これを韓国型ディザスター映画の最新アップデートとして受け取った。

 ところが、映画は斜め上から楔を打ち込んでくる。ヒジョはアンナが人類を救う計画の鍵だとまで言い放つ。さらに彼女はAI研究チームのNo.2だったがNo.1が水難事故に遭い、繰り上がりでNo.1になったという説明が置かれる。ここで私は正直冷めてしまった。『梨泰院クラス』のキム・ダミ演じるアンナに生活が見えないのだ。救世主としての切迫と、母としての具体が、同じ画面でうまく噛み合っていない。もっと残酷に言えば、彼女は人類絶滅の鍵以前に、目の前の子どもを抱える人間としての温度が薄い。その薄さは後半、映画の野心が膨張するほど逆に致命傷になっていく。逃避行の最中、ジャインに異変が起き、ヒジョが口にする「回収」という語が徐々に不穏さを増していく。やがて示されるのは、アンナとジャインの関係が一般的な母子関係ではないという事実だ。アンナが開発してきたイモーション(感情)エンジンと人類救済計画の核心が、洪水より大きい目的として浮上する。ここで映画は、ディザスターを外的脅威として描く段階から、倫理SFの領域へと踏み込む。母性は感情の源泉ではなく、プロトコルとして扱われる。子どもは未来ではなく、器として扱われる。この転換自体は、テーマとしては現代的だ。感情を、愛や共同体の渦からではなく、データと反復で生成しようとする発想は、むしろ背筋が寒いほど同時代的である。

 だが、問題はそのジャンル変換の手つきだろう。クライマックスに向かうに従い、どうやら本作がタイムリープ/反復(ループ)の構造を持つと分かった瞬間、私は心底げんなりした。なぜなら洪水が、出来事ではなく視覚的記号に格下げされてしまうからだ。せっかく序盤、下から上へと水が逆流することで階層の転倒を見せたのに、後半はその洪水が、感情エンジンの実験装置に過ぎなかったかのように扱われる。つまり世界が沈む話を感情が立ち上がる話に変換するはずが、その継ぎ目が荒い。災害としての切迫と、SFとしての設計が、同じ場面で同じ速度で走らない。リアルな災害としては迫力がある一方、SFとしては不親切で、ループの反復が母性に過度に依存してしまい、ジャンルをつなぐブリッジがそもそも弱い。その結果、映画が語りたかったはずのもの。たとえば母性を計算可能にすることの暴力や人間の肉体を捨て、データに未来を預けることの冷酷とが、倫理の苦味として積み上がる前に、設定の説明へと崩れていく。かつて人類が「ノアの箱舟」に抱いた希望を、本作は徹底的に踏みにじる。最後に残るのは、データの海に溺れる科学者と、捨てられた人間の肉体だ。

 事件の核心だった子どもの未来さえも単なるデータの器として扱い、最後にポッドを十字架ではなく墓標へ変えてしまう。そこまで徹底して冷酷なら、それはそれで一本の黙示録として成立し得たはずだ。ただ私には、その冷酷さが現在の韓国の逃げ場のない絶望として刺さる前に、映画の内部の接続不全として引っかかってしまった。洪水という巨大な現実の比喩が、ループという便利な仕掛けに吸い取られていく。上へ逃げても意味がないという恐怖を、最後にデータへ逃げる物語へ繋げるなら、もっと中盤で、肉体の痛みと倫理の痛みが同じ温度で燃えなければならない。『大洪水』は、序盤に見せた逆流する階層寓話という傑作の芽を持ちながら、その芽を自分でいとも簡単に踏み潰してしまう。洪水の水位が上がるにつれて、映画の温度が下がっていく。私にとってのこの作品の恐怖は、沈みゆく世界そのものではなく、沈みゆく世界をただの記号として扱う冷たさのほうだった。

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