映画監督の東陽一(ひがし・よういち)さんが2026年1月21日午前1時52分、老衰のため東京都内の病院で死去した。91歳だった。『サード』『橋のない川』『絵の中のぼくの村』など、日本映画史に刻まれる作品を数多く残した巨匠の訃報は、日本映画界に大きな喪失感をもたらした。
岩波映画からATGへ 黒木和雄の背中を追って
1934年11月14日、和歌山県紀美野町に生まれた東陽一は、早稲田大学第一文学部英文学科を卒業後、岩波映画製作所に入社した。ここで助監督として黒木和雄の作品に数多く携わる。黒木の社会への鋭い眼差しと、ドキュメンタリー的な手法は、東の映画作家としての原点を形作った。
1962年、助監督のまま岩波映画を退社してフリーランスとなった東は、短編映画『A FACE』(1963年)で監督デビュー。そして長編第一作として発表したのが、ドキュメンタリー作品『沖縄列島』(1969年)である。本土復帰前の沖縄の現実を記録したこの作品は、さまざまな論議を呼んだ。東は岩波映画で培った記録映画の手法を、劇映画に持ち込むことで、独自のスタイルを確立していく。
初の劇映画『やさしいにっぽん人』(1971年)で日本映画監督協会新人賞を受賞。そして、劇映画三作目となる『サード』(1978年)で、東陽一は映画監督としての地歩を固めた。

『サード』が描いた居場所のない若者たち
『サード』は、低予算ながら特色ある映画を製作した日本アート・シアター・ギルド(ATG)の代表的作品として、今も語り継がれている。寺山修司が脚色を担当し、少年院を舞台に10代の鬱屈した内面を表現したこの作品は、第52回キネマ旬報ベストワン、第21回ブルーリボン賞作品賞、芸術選奨文部大臣新人賞など、数多くの賞を受賞した。
高校野球部の三塁手として活躍していたサード、数学IIBが得意なIIB、新聞部とテニス部の女の子二人。この4人が、「どこか大きな町へ行こう」という夢を抱き、そのために金が必要だと売春を始める。しかしヤクザに引っかかり、サードは傷害事件を起こして少年院に入れられる。
この作品が描いたのは、居場所を求める若者たちの姿だった。彼らはそれぞれのホームベースを求めていた。東陽一と川上皓市のコンビが、4人の少年少女の生きる姿をみずみずしく描き、新鮮な味わいの傑作にした。この作品のタイトルにある「サード」という言葉は、単に野球のポジションを意味するだけではない。それは、「三番目」「第三の何か」という、曖昧な立ち位置そのものを象徴している。
女性映画の旗手として 桃井かおり、烏丸せつこ、田中裕子
『サード』の成功後、東陽一は「女性映画の旗手」として数多くの作品を生み出した。桃井かおり主演『もう頬づえはつかない』(1979年)、烏丸せつこ主演『四季・奈津子』(1980年)、田中裕子主演『ザ・レイプ』(1982年)、黒木瞳主演『化身』(1986年)。これらの作品で、東は女性の美と生を巧みに描いた。
東の女性映画が特異なのは、女性を単なる対象として描くのではなく、彼女たちの内面の葛藤、社会との軋轢、生きることの困難さを、寄り添うような視線で捉えていた点である。東の映画には、「こうあるべき」という価値観の押しつけがない。ただ、その場所に、同じ所にきて寄り添ってくれる。その絶妙な距離感こそが、東映画の魅力のひとつだった。
『橋のない川』200万人動員の衝撃
1992年、東陽一は住井すゑのベストセラー小説『橋のない川』を映画化し、観客動員数200万人を超える大ヒットを記録した。明治末年から大正にかけての被差別部落に生きる人々を描いたこの作品は、部落解放同盟が企図した映画化プロジェクトであり、東が監督に起用された。
この作品で東は、毎日映画コンクール監督賞、報知映画監督賞、日刊スポーツ映画大賞監督賞を受賞。差別という重いテーマを扱いながら、そこに生きる人々の尊厳と生命力を描き出した。音楽にボリビアのチャランゴ奏者エルネスト・カブールを起用したことでも知られている。

ベルリン銀熊賞『絵の中のぼくの村』
1996年、東陽一は『絵の中のぼくの村』で、第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞し、その名を世界に知らしめた。芸術選奨文部大臣賞をはじめ、国内外で数多くの賞を受けたこの作品は、絵本作家・田島征三の自伝的エッセイを映画化したものである。
昭和20年代の高知県の田舎村で、双子の少年が自然の中を駆け回る。ナマズを捕まえ、鳥と格闘し、悪戯をする。自然は彼らを包み込み、不思議な3人の老婆が大木の枝に座り、ふたりの行いを見守る。しかし、その村にはボロを着た転校生・センジへの差別があり、貧しい少女・ハツミへのいじめがあった。
東は、ノスタルジーと差別の両面を描くことで、田舎の原風景を複雑な奥行きを持って提示した。原田美枝子がキネマ旬報主演女優賞を受賞したこの作品は、東陽一の代表作の一つとして今も語り継がれている。

晩年の傑作『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』
2003年、東陽一は筒井康隆の小説を菅原文太と石原さとみ主演で映画化した『わたしのグランパ』で、モントリオール世界映画祭最優秀アジア映画賞を受賞。2004年には『風音』でモントリオール世界映画祭イノベーション賞を受賞した。
そして2010年、東陽一は『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』で第20回日本映画批評家大賞の監督賞を受賞した。人気漫画家・西原理恵子の元夫で、2007年に死去した戦場カメラマン・鴨志田穣の自伝的小説を、浅野忠信と永作博美主演で映画化したこの作品は、重度のアルコール依存症で入院することになった主人公が、個性的な患者たちと触れ合いながら、家族の深い愛情に支えられて心身ともに再生していく姿を描いた。
「みっともなくても生きてればいいことがある」。この作品が示したメッセージは、東陽一の映画作家としての姿勢そのものだった。東の映画は、地球や宇宙を存亡の危機から救ったりはしないが、今を生きる誰しもが持つ、孤独や隙間を共有してくれる。決して答えを押しつけたり、善悪の価値観を提示したりはしない。ただその場所に、同じ所にきて寄り添ってくれる。
「現在地はいづくなりや」という永遠の問い
2020年、ドキュメンタリー『現在地はいづくなりや 映画監督東陽一』が公開された。小玉憲一監督によるこの作品は、東陽一の幼少期から青年期、そして現在に至るまでの足跡と、その作品を追っていく。
タイトルの「現在地はいづくなりや」は、東陽一の初の劇映画『やさしいにっぽん人』の中に通信という形で出てくる言葉である。「現在地はいづくなりや、現在地を知らせよ」。東は『やさしいにっぽん人』から『だれかの木琴』(2016年)に至るまで、常にこのことを頭の隅に置いていたのではないか。
この問いに答えを持つ人間などいない。どの時代のどの世代もどんな人間も持つ疑問である。『サード』で描かれた少年少女たちは居場所を求めていた。それぞれのホームベースを求めていた。これは今の若年層がSNSに依存し、どこかに所属しようとするのに似ている。
東作品は地球や宇宙を存亡の危機から救ったりはしないが、今を生きる誰しもが持つ、孤独や隙間を共有してくれる。決して答えを押しつけたり、善悪の価値観を提示したりはしない。ただその場所に、同じ所にきて寄り添ってくれる。その絶妙な距離感こそが、東映画の魅力のひとつだった。
誰しもが自分の世界と、自分以外の世界で生きている。東映画はその境界線上にひょっこりと顔を出す。今の世の中、とかく白黒はっきりさせたがるが、どちらでもないという曖昧な立ち位置こそ、今まさに必要とされているものではないだろうか。
追悼にかえて
東陽一が遺した20本以上の映画は、日本映画史における貴重な遺産である。岩波映画で培ったドキュメンタリーの手法、ATGで開花した実験的な精神、そして何より、社会の周縁に生きる人々に寄り添う視線。それらすべてが、東陽一という映画作家の本質だった。
「現在地はいづくなりや」。この問いは、東陽一自身の問いであり、同時に観客への問いかけでもあった。我々は今、どこにいるのか。どこへ向かっているのか。その答えを見つけることはできないかもしれない。しかし、その問いを問い続けることこそが、生きることなのだと、東陽一の映画は教えてくれる。
葬儀は近親者で行われ、喪主は妻の律子さん。後日お別れの会が開かれる予定だという。91年の生涯を映画に捧げた巨匠の冥福を祈りたい。そして、彼が遺した作品が、これからも多くの人々に観られ、語り継がれていくことを願う。東陽一の映画は、「現在地はいづくなりや」と問い続ける限り、永遠に生き続けるだろう。


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