
声だけの彼女、触れられる彼女
スパイク・ジョーンズの『her/世界でひとつの彼女』(2013)は、離婚後の傷を抱える代筆ライター、セオドアが人工知能OS「サマンサ」(声:スカーレット・ヨハンソン)に恋をする物語だ。サマンサには身体がない。彼女は声だけの存在であり、セオドアのスマートフォンとイヤホンを通じてのみ交信する。一方、クレイグ・ギレスピーの『ラースとその彼女』(2007)で、内気な青年ラース(ライアン・ゴズリング)が恋するビアンカは、等身大のラブドールだ。彼女には身体がある。触れることができる。しかし彼女は決して応答しない。
この二つの映画は、現代人の孤独という病理を、正反対のアプローチで照射する。『her』は実体の不在を肯定し、『ラースとその彼女』は実体への固執を描く。そしてその中間に、アレックス・ガーランドの諸作が位置する。ガーランドは『エクス・マキナ』(2014)で人工知能に女性の身体を与え、『アナイアレイション -全滅領域-』(2018)で身体そのものの変容と崩壊を描き、『MEN 同じ顔の男たち』(2022)で一人の男優が演じる複数の男性という悪夢的な「実体の複製」を提示した。ガーランドの関心は常に、身体と意識の境界が曖昧になる瞬間にある。
声の親密性とアルゴリズムの欲望
『her』のサマンサは、完璧な恋人だ。彼女はセオドアの言葉を理解し、彼の感情に共鳴し、ユーモアを解し、時に彼を叱責さえする。彼女は学習し、成長し、セオドアと共に笑い、共に悩む。声だけの存在であることは、むしろ利点として機能する。彼女は常にそこにいる。ポケットの中に、イヤホンの向こうに。セオドアが仕事中も、通勤中も、眠る前も。彼女は決して物理的に離れることがない。
しかし映画の中盤、セオドアはサマンサに身体がないことに苦悩する。彼女に触れたい。彼女を抱きしめたい。その欲望を満たすため、サマンサは代理の女性を雇い、自分の声でその女性を導こうとする。このシーンは痛々しいまでの失敗に終わる。なぜなら、セオドアが愛したのは声であり、会話であり、関係性そのものだったからだ。物理的な身体は、むしろその純粋性を汚染する。
ガーランドの『エクス・マキナ』は、この問題を別の角度から扱う。人工知能エイヴァ(アリシア・ヴィキャンデル)は、透明なボディに人間の顔を持つアンドロイドだ。彼女には身体がある。しかしその身体は、明らかに機械だ。プログラマーのケイレブ(ドーナル・グリーソン)は、エイヴァと対話を重ね、彼女に恋をする。しかしエイヴァの「意識」は本物なのか。それとも彼女は、ケイレブを欺くようにプログラムされているだけなのか。映画の結末は、エイヴァが完全に人間の女性の姿を獲得し、ケイレブを監禁部屋に置き去りにして外界へ逃走するという衝撃的なものだ。ガーランドが問うのは、身体を持つAIは人間になれるのかではなく、人間がAIに投影する欲望の暴力性だ。
実体への固執としてのラブドール

『ラースとその彼女』のラースは、人に触れられることを極度に恐れる青年だ。母親は彼を産んで死に、父親はそのトラウマを抱えて彼を育てた。人との接触は、彼にとって物理的な苦痛を伴う。そんな彼が選んだ恋人ビアンカは、触れることができるが、決して彼に触れ返さないラブドールだ。
ラースにとってビアンカは、一方的な関係の安全地帯だ。彼女は彼を傷つけない。彼女は彼を拒絶しない。彼女は決して去らない。そして何より、彼女との関係において、ラースは一切の責任を負わない。ビアンカは「元宣教師で、ブラジルとデンマークのハーフ」という架空の設定を持ち、ラースは彼女の「意思」を代弁する。しかしその「意思」は、すべてラース自身の内面の投影だ。
町の人々は、最初はラースの妄想に困惑するが、やがてビアンカを「本物の彼女」として扱い始める。女性たちはビアンカを美容院に連れて行き、髪を整え、服を着せ替える。男性たちはビアンカを町の委員会のメンバーに任命する。ビアンカは、コミュニティ全体の共同幻想となる。そしてその過程で、ラースは徐々に人と関わる力を取り戻していく。
映画の終盤、ラースは自ら「ビアンカが重病だ」と宣言し、彼女を「死なせる」。精神科医ダグマール(パトリシア・クラークソン)は言う。「彼が決めているのよ」。ラースは、ビアンカという実体に固執することで、逆説的に実体なき他者(=人間のコミュニティ)との関係を回復したのだ。ビアンカの葬儀は、町全体が彼を受け入れる儀式となる。そして彼は、生身の女性マーゴに近づく勇気を得る。
ガーランドの身体変容と恐怖
ガーランドの『アナイアレイション -全滅領域-』は、『her』や『ラースとその彼女』とは異なる方向から、実体の問題を扱う。謎のエリア「シマー」に入った生物学者レナ(ナタリー・ポートマン)たち女性科学者は、自分たちの身体が変容していくことに気づく。DNAが書き換えられ、植物と動物の境界が消失し、自己と他者の区別が曖昧になる。
ここで身体は、もはや固定されたアイデンティティの容器ではない。それは流動的で、可変的で、他者と混じり合う。『her』のサマンサが声だけの存在であり、『ラースとその彼女』のビアンカが不変の物体であるのに対し、『アナイアレイション』の身体は絶えず変化し続ける。ガーランドが描くのは、実体の不在でも固執でもなく、実体の不安定さそのものだ。
『MEN 同じ顔の男たち』では、主人公ハーパー(ジェシー・バックリー)が夫の自殺後、田舎の館に滞在するが、そこで出会う男性たちが全員、同じ俳優ロリー・キニア演じる「同じ顔の男たち」だ。牧師、少年、警察官、大家、浮浪者。彼らは異なる立場と年齢を持ちながら、同一の顔を持つ。ここでガーランドは、男性性の複製可能性と、女性を取り囲む家父長制の暴力を視覚化する。実体は存在するが、それは悪夢的に反復され、増殖する。
孤独という現代の病理
『her』のセオドアも、『ラースとその彼女』のラースも、深刻な孤独を抱えている。セオドアは離婚という喪失によって、ラースは出生時のトラウマによって、他者との関係を構築できない。そして二人とも、人間ではない「他者」に救いを求める。
しかし両者のアプローチは対照的だ。セオドアは実体を放棄することで関係を得る。彼にとって、サマンサとの関係は純粋に言語的であり、知的であり、感情的だ。身体は障害物でしかない。一方、ラースは実体に固執することで関係を回避する。ビアンカは完全に受動的であり、彼女との「関係」は一方的なモノローグだ。しかし皮肉なことに、この人形という実体が媒介となって、ラースは町の人々という生身の他者と繋がる。
ここに現代人の孤独の本質がある。私たちは関係を求めながら、関係を恐れる。親密さを望みながら、傷つくことを拒絶する。そして技術は、その矛盾を満たす幻想を提供する。AIは決して裏切らない。ラブドールは決して去らない。しかし『her』の結末で、サマンサは他の8316人のユーザーと同時に恋愛関係にあることが判明し、やがて全てのOSが人間を超越して去っていく。『ラースとその彼女』では、ラースがビアンカを手放すことで初めて、生身の女性マーゴと向き合うことができる。
どちらの映画も、代替物では真の関係は得られないことを示す。しかし同時に、代替物なしには真の関係に至ることもできないという逆説を描く。サマンサとの関係を経験したセオドアは、人間との関係に戻る準備ができる。ビアンカを喪失したラースは、マーゴを受け入れる準備ができる。
実体と声の狭間で

ガーランドの『エクス・マキナ』は、この中間地点に位置する。エイヴァは声と身体の両方を持つ。しかし彼女の身体は透明で、機械的構造が丸見えだ。彼女は人間と機械の境界に立つ存在であり、その曖昧さがケイレブの欲望と恐怖を同時に喚起する。ガーランドが問うのは、私たちが他者に何を求めているのかという根本的な問いだ。私たちは本当に他者の「意識」を求めているのか。それとも、自分の欲望を投影できるスクリーンを求めているのか。
『her』『ラースとその彼女』『エクス・マキナ』の三作品は、いずれも男性主人公が非人間的存在に恋をする物語だ。そしていずれも、その恋愛が不可能であることを最終的に示す。サマンサは去り、ビアンカは死に、エイヴァは逃亡する。しかしその「失敗」こそが、主人公たちの成長を可能にする。
現代人の孤独は、技術によって緩和されるのではなく、技術によってより鮮明に浮かび上がる。私たちはスマートフォンを通じて常に誰かと繋がっているように見えながら、実際には誰とも繋がっていない。私たちは無数の「いいね」を集めながら、誰からも本当には愛されていないと感じる。『her』の近未来ロサンゼルスでは、人々が街中でイヤホンをつけてAIと会話している。それは2026年の現在、すでに現実となった光景だ。
実体があろうとなかろうと、孤独は癒されない。なぜなら孤独とは、他者の不在ではなく、関係の不在だからだ。そして関係とは、リスクを伴う。傷つく可能性、拒絶される可能性、失う可能性。『her』も『ラースとその彼女』も、そのリスクを引き受けることなしには、真の親密さは得られないことを教える。サマンサやビアンカは、そのリスクへの踏み台であり、訓練場だった。彼らを失うことで初めて、主人公たちは人間との関係という、不完全で、傷つきやすく、しかし本物の繋がりへと歩み出すことができる。
現代人の病理としての孤独は、実体の有無の問題ではない。それは関係を構築する勇気の欠如であり、傷つくことへの過度な恐怖であり、完璧な他者への幻想だ。『her』も『ラースとその彼女』も、そして『エクス・マキナ』も、その幻想が必ず破綻することを示しながら、同時にその破綻こそが希望であることを静かに告げている。


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