映画ラストマン -FIRST LOVE-評

新作評

 ドラマ版のラストから2年。全盲のFBI捜査官・皆実広見(福山雅治)と、今は実の兄弟として絆を深めた護道心太朗(大泉洋)は、国際的ハッキング事件の首謀者を追って北海道へ向かう。そこで皆実が再会したのは、かつてアメリカ留学時代に魂を分かち合った初恋の人ナギサ・イワノワ(宮沢りえ)だった。世界的な天才エンジニアである彼女は、巨大なエネルギー利権に絡む陰謀に巻き込まれ、国際テロ組織から命を狙われている。ナギサの保護を巡り、皆実の超感覚と心太朗の現場の執念が、広大な雪原を舞台に繰り広げられる。しかし捜査が進むにつれ、皆実の記憶にあるナギサの体温と、目の前にいる彼女が放つノイズの食い違いも同時に浮き彫りになる。ナギサが開発していたのは、個人の記憶をデジタル化し、死者をも再現するAIプロトコル。タイトル『FIRST LOVE』が指すのは、皆実の純愛ではなく、最初の愛をデジタルで完璧に再現しようとした歪な試みであった。そう示唆していく導入は、日曜劇場の映画化としては意外と攻めている。

 ドラマ版は未見でも、人物の相関関係はそれほど難しくない。ナギサと娘が総領事館に駆け込み、そこから物語が動き出す。副題にもある通り、皆実は個人的な理由もあってこの警護を引き受け、東京にいる心太朗を呼び出す。恋人役の吉田羊や若手の今田美桜は別件で忙しいのか、今回はほとんど顔を出さない。その代わりに交換研修生クライド・ユン(ロウン)が合流し、FBI・CIA・北海道警まで混ざる合同チーム戦になる。正月前のクリスマス映画で、従来の冷戦構造をまたぐ国際的な情報戦が札幌の地で転がり出すとは夢にも思わないが、ここで映画は「ナギサの逃亡戦」と「内通者探し」という二本立てのレールを敷き、派手に走り出す。問題は、走り出した後の温度だ。国際テロ組織の荒唐無稽さには、正直ツッコミを入れたくなる。あんなに漫画みたいな連中、本当にいるのかよと。だが同時に、映画がそこをリアルに寄せる気がないのも分かる。北海道というロケーションは、事件の現実味より、見世物としての立ち上がりに使われる。函館フィーチャーは半分観光映画で、その分だけバディ映画としての側面が軽くなるかと思いきや、そこを「泣きの演出」と「大ドンデン返し」でうまく縫い合わせ、結局は年末向けのご馳走パックとして成立させてしまうのだ。舞台が北海道だから頻繁に飛び出す心太朗の「なまら」いじりも、コメディとしての空気の抜き方として効いている。

 キャスティングの白眉は、皆実の青年期に濱田龍臣を配した点だろう。ここはただのキャスティングの巧さではない。皆実の超感覚が物語を引っ張る以上、観客が信じるべきなのは推理のロジックではなく、皆実という人物の輪郭だ。その輪郭を過去パートで補強することで、現在の皆実がどれだけ超人化してもこの人ならやりかねないという納得に近づける。つまり、超人化の説得力を、過去の肉体の記憶で支えようとしている。ただし、そこにも限界はある。いくら伴走者がいるにしても、盲目の人間をあれだけ万能の捜査装置にしてしまうと、バディの力学が逆に単純化してしまう。皆実が当て、心太朗が走る。その役割分担が気持ちいい反面、危機や痛みの手触りが薄くなる瞬間がある。しかも本作の肝は「FIRST LOVE」=初恋を巡る記憶の齟齬であり、皆実の内側にある体温と目の前のノイズの違和感がドラマを駆動するはずだ。だからこそ、超感覚が万能であればあるほど、初恋の物語が持つはずの脆さ、判断の迷い、遅れの美学が削れてしまう。大ドンデン返しで観客を気持ちよく裏返す一方で、恋の記憶にあるはずの「躓き」が滑らかすぎる。ここが、派手な映画としての快感と、初恋を扱う物語としての苦味が、最後まで同じ強度で噛み合いきらない理由だ。それでも、年末映画としての割り切りと、バディものとしての手つきは健在だ。

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