愛の不可能性について レオス・カラックス『汚れた血』が描く1986年

旧作評
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ユーロスペース下からの風景

26歳の天才が捉えた世紀末の予感

レオス・カラックス(本名アレックス・デュポン)が『汚れた血』(Mauvais Sang、1986)を撮ったのは、わずか26歳の時だった。長編第2作にして、既に完成されたスタイルを持つこの映画は、1980年代フランス映画の中でも最も異様な輝きを放つ作品だ。

物語の舞台は「近未来」とされているが、実際には1986年のパリそのものだ。STBOと呼ばれる奇病が流行している。「愛なきセックスによって感染する病」。エイズのメタファーであることは明白だが、カラックスはこの設定を単なる社会派的テーマとして扱わない。むしろSTBOは、愛することができない人間たちの実存的な病として描かれる。

主人公アレックス(ドニ・ラヴァン)は、伝説的な泥棒の息子だ。父の借金を返すため、アメリカの製薬会社からSTBOの血清を盗む仕事を引き受ける。しかし本当の物語は、この犯罪プロットではなく、アレックスが年上の恋人アンナ(ジュリエット・ビノシュ)に抱く激しい恋愛感情にある。アンナは既に別の男マルク(ミシェル・ピッコリ)と同棲している。アレックスは愛しているが、愛を告白できない。この沈黙が、彼をSTBOの危険に晒す。

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デヴィッド・ボウイと疾走 モダン・ラブの視覚化

『汚れた血』で最も有名なシーンは、デヴィッド・ボウイの「Modern Love」に乗せてドニ・ラヴァンが夜の路上を疾走する場面だ。このシーンは、映画史に残る瞬間として語り継がれている。

アレックスはアンナへの愛を告白できない苦悩の中で、突然走り出す。街灯に照らされた路上を、彼は全身全霊で駆け抜ける。走りながら跳び、街灯の柱に掴まり、車のボンネットを転がる。この運動は、ダンスでもあり、発作でもある。ボウイの歌う「Modern Love」の歌詞—「Modern love walks beside me / Modern love walks on by」(現代の愛は僕の横を歩く/現代の愛は通り過ぎていく)は、アレックスの状態を完璧に表現している。

カラックスは、このシーンをワンカットの長回しではなく、複数のカットで構成している。しかし編集のリズムがボウイの楽曲と完全にシンクロし、まるで一つの連続した動きのように見える。ラヴァンの肉体は、言葉にできない感情を運動によって表現する装置となる。彼は走ることでしか、愛を表現できない。

この疾走シーンは、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)でジャン=ポール・ベルモンドがシャンゼリゼ通りを歩くシーンへのオマージュでもある。しかしゴダールのベルモンドが「歩く」ことで都市を所有したのに対し、カラックスのラヴァンは「走る」ことでしか都市と関係できない。この差異は、1960年代と1980年代の決定的な断絶を示している。

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ジュリエット・ビノシュ 21歳の謎

ジュリエット・ビノシュは、この映画で初めて主役級の役を演じた。当時21歳。彼女が演じるアンナは、年齢不詳の女性だ。少女のような無邪気さと、老女のような諦念を同時に持つ。

アンナはマルクと同棲しているが、愛しているわけではない。マルクもそれを知っている。しかしアンナはアレックスの愛に応えない。応えることができない、のか、応えたくない、のか。ビノシュの演技は、この曖昧さを完璧に体現している。

重要なのは、アンナがSTBOに感染していることだ。「愛なきセックス」によって感染する病。つまり彼女は、マルクとのセックスに愛がなかったことを、自ら証明している。しかし彼女はアレックスを愛しているのか? もし愛しているなら、なぜ距離を置くのか? もし愛していないなら、なぜアレックスの前で涙を流すのか?

ビノシュの顔は、この矛盾を解決しない。彼女は答えを与えない。ただ存在する。カラックスのカメラは、彼女の顔を何度もクローズアップで捉えるが、そのたびに彼女は謎のまま残る。この「解読不可能性」こそが、ビノシュの最大の武器だ。

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ミシェル・ピコリとハンス役の老人たち 老いた犯罪者の美学

ミシェル・ピコリが演じるマルクは、アレックスの父の旧友で、今回の犯罪を計画する黒幕だ。しかし彼もまた、過去の栄光にすがる老いた犯罪者に過ぎない。ピコリは当時61歳。彼の顔に刻まれた皺は、犯罪の歴史そのものだ。

マルクと共に計画を実行するハンス(セルジュ・レジアニ)とアンナの叔父(ユーゴ・サンチアゴ)もまた、老いた犯罪者だ。彼らは過去に輝かしい仕事をした。しかし今、彼らはアパートの一室で酒を飲み、昔話をするしかない。

カラックスは、この老人たちを哀れみの対象として描かない。むしろ敬意を持って撮る。彼らの動きは遅く、計画は時代遅れだ。しかし彼らには、若いアレックスが持たない「スタイル」がある。犯罪は彼らにとって、単なる金儲けではなく、美学の問題なのだ。

この世代間の対照は、1980年代フランス映画が直面していた問題を反映している。ヌーヴェルヴァーグの巨匠たちは老い、新しい世代が登場した。しかし新しい世代は、巨匠たちのスタイルを継承することも、完全に拒絶することもできない。カラックスは、この中間地点に立っている。彼は老いた犯罪者たちを尊敬しながらも、彼らの時代が終わったことを知っている。

赤と青 色彩による感情の抽象化

『汚れた血』は、極端な色彩設計で知られる。特に赤と青の使用が印象的だ。アンナの部屋は青い光に満たされている。アレックスが疾走する夜の路上は、赤と青の街灯に照らされている。犯罪の現場は、緑がかった蛍光灯の光だ。

この色彩は、写実的な照明ではない。むしろ表現主義的、あるいは抽象的だ。カラックスは、色によって感情を直接表現しようとする。青は孤独と不安。赤は欲望と暴力。緑は病と死。

撮影監督ジャン=イヴ・エスコフィエは、この色彩設計を実現するために、実際の照明を極端に操作した。結果として、パリという実在の都市が、まるでセットのように見える。『汚れた血』のパリは、現実のパリではない。カラックスの内的風景としてのパリだ。

この色彩は、フリッツ・ラングの『M』(1931)や、ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』(1965)へのオマージュでもある。しかしカラックスの色彩は、より過剰で、より感傷的だ。彼は恥じることなく美しさを追求する。この「恥じなさ」が、1980年代の批評家たちから批判された理由でもあり、同時に若い観客を熱狂させた理由でもある。

1986年という臨界点 エイズとポストモダンの交差

『汚れた血』が製作された1986年は、いくつかの点で臨界点だった。エイズ危機は本格化し、同性愛者コミュニティだけでなく、異性愛者にも広がり始めていた。「愛なきセックス」という概念は、1980年代の性の自由が突然リスクに変わった瞬間を象徴している。

同時に、1986年はポストモダンの全盛期でもあった。ジャン・ボードリヤールのシミュラークル論、フレデリック・ジェイムソンの後期資本主義批判。「オリジナル」は失われ、すべては「引用」と「パスティーシュ」になった。

カラックスの映画は、まさにこのポストモダン的状況の産物だ。『汚れた血』は、無数の映画的引用で構成されている。ゴダール、トリュフォー、メルヴィル、ブレッソン。しかしカラックスは、単なる引用に留まらない。彼は引用を通じて、強烈な個人的感情を表現する。これは「ポストモダンの中のロマン主義」とでも呼ぶべきものだ。

結論 愛という病の治療法なき診断書

『汚れた血』は、愛についての映画だ。しかしそれは、愛の勝利を描く映画ではない。むしろ愛の不可能性を描く映画だ。アレックスはアンナを愛している。しかし彼は愛を告白できない。アンナはおそらくアレックスを愛している。しかし彼女は愛を受け入れられない。この相互的な不可能性が、STBOという病の本質だ。

映画の結末で、アレックスは血清強奪に成功する。しかしアンナは、彼の元を去る。病は治るかもしれない。しかし愛は成就しない。カラックスは、ハッピーエンドを拒絶する。彼が信じているのは、愛の可能性ではなく、愛することの美しさだ。たとえ愛が報われなくても、愛すること自体が価値を持つ。

デヴィッド・ボウイの「Modern Love」に乗せて疾走するドニ・ラヴァンの姿は、この不可能な愛の完璧な視覚化だ。彼は走ることでしか、愛を表現できない。そしてその疾走は、決してアンナに届かない。しかし疾走そのものが美しい。カラックスが撮ったのは、この「届かない美しさ」だ。

『汚れた血』は、26歳の天才が1986年という時代に刻んだ、愛という病の治療法なき診断書だ。そしてこの診断書は、40年近く経った今も、その鋭さを失っていない。我々は今も、「愛なきセックス」の時代を生きている。我々は今も、愛を告白できず、愛を受け入れられず、ただ疾走することしかできない。レオス・カラックスは、この現代の病を、誰よりも早く、誰よりも美しく、撮った。

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