少女の死と鬼火、曖昧な参照項  『白の花実』評

新作評
画像
『白の花実』ポスター

 坂本悠花里の初長編『白の花実』は、全寮制女子校という閉鎖空間で、完璧な少女の死をきっかけに残された者たちの心が揺らぐ様を描く。この設定は、映画史における「少女の閉鎖空間もの」という豊かな系譜に連なる。しかし本作は、先行作品が切り開いた地平を十分に理解しないまま、表層的な模倣に留まっている。最も直接的な参照項は、ソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』(1999)だろう。公式サイトでも「『ヴァージン・スーサイズ』では描かれなかった死の向こう側へ踏み込む」と謳われている。確かにコッポラの映画は、リスボン家の五姉妹の自殺を、外部の男性たちの視点から謎として描いた。観客は、彼女たちの内面に決して到達できない。それは意図的な距離であり、少女を神秘化する男性的視線への批評でもあった。対して『白の花実』は、死んだ莉花の日記を通じて、彼女の内面を説明しようとする。しかしこれは、『ヴァージン・スーサイズ』の本質を誤解している。問題は「なぜ彼女たちは死んだのか」という謎を解くことではなく、なぜ私たちは彼女たちの死を理解できないのかという問いそのものにあったからだ。『白の花実』は、日記という装置で「答え」を提示するが、その答えは陳腐で表層的だ。

 より重要な参照項は、ピーター・ウィアーの『ピクニック・アット・ハンギング・ロック』(1975)である。1900年のオーストラリア、寄宿学校の少女たちが遠足先の岩山で神隠しに遭うこの映画もまた、少女の失踪を謎のまま残した。しかしウィアーが描いたのは、ヴィクトリア朝的抑圧と、それに対する自然の暴力的な侵入だった。コルセットで締め付けられた身体、規律と純潔を強要する教育、そして岩山という原始的な力——映画は、この対立を官能的な映像で描き出した。『白の花実』にも、カトリック学校という抑圧的制度は存在する。しかし坂本監督は、その抑圧を具体的に描くことができていない。「伝統や格式に固執した空間」という抽象的な説明に留まり、抑圧がどのように少女たちの身体と精神を縛るのかが見えてこない。中原俊の『櫻の園』(1990)との類似はどうだろうか。カトリック系女子校、「ごきげんよう」という挨拶、少女たちの微妙な恋心。確かに表面的には似ている。しかし『櫻の園』が優れていたのは、演劇という装置を通じて、少女たちの「演じること」と「本当の自分」の境界を曖昧にした点だ。彼女たちは常に、誰かの視線を意識して演じている。『白の花実』のダンスも同様の機能を果たすはずだが、結局は単なるビジュアル要素に留まる。

 ルシール・アザリロヴィックの『エコール』(2004)は、より過激だ。森の中の寄宿学校、少女たちだけの世界、男性の不在。この設定は『白の花実』と重なる。しかし『エコール』が描いたのは、少女期から成熟への移行という、生物学的で根源的なテーマだった。血、水、身体の変容。映画は、言葉ではなく身体そのものを通じて、成長の暴力性を描いた。『白の花実』は、こうした身体性を欠いている。『白の花実』にも超自然的要素がある。死んだ莉花の魂が、青白く揺れる鬼火のような姿で現れ、杏菜の中へ入り込む。この設定は、ファントム・ファンタジーとして機能するはずだった。死者の魂が生者に憑依することで、杏菜は莉花の苦悩を追体験し、栞もまた莉花の導きによって杏菜に歩み寄る。少女たちの心の揺らぎは、この超自然的媒介を通じて加速される。

画像


 しかし問題は、この鬼火がビジュアル的ギミックに留まり、真の恐怖や官能性を伴わない点だ。『白の花実』の鬼火は、単なる視覚効果であり、杏菜や栞の内面に真の変容をもたらさない。彼女たちは「揺らぐ」が、その揺らぎは表層的で、身体的・精神的な暴力性を欠いている。本作の最大の問題は、すべてが中途半端なことだ。『ヴァージン・スーサイズ』のような謎の美学も、『ピクニック』のような官能性も、『櫻の園』のような演劇性も、『エコール』のような身体性も、どれも表層的に模倣されるだけで、真に自分のものにできていない。鬼火という超自然的要素さえも、少女たちの揺らぎを深化させる装置ではなく、単なる視覚的装飾に堕している。

画像


 憑依という設定は、本来ならば主体の崩壊を意味する。杏菜は、もはや「自分だけの自分」ではなく、莉花という他者を内包した存在になる。この二重性は、アイデンティティの危機であり、恐怖であり、同時に解放でもあるはずだ。しかし映画は、この可能性を十分に展開しない。杏菜は「揺らぐ」が、その揺らぎは心理的な次元に留まり、存在論的な次元にまで到達しない。耽美的な映像は美しい。若手女優たちの繊細な演技も悪くない。しかし映画全体が、先行作品の「いいとこ取り」に終始し、独自の視点を欠いている。ゆっくりとしたテンポ、余白の多い演出。それは芸術性を装っているが、実際には物語の弱さと演出の未熟さを隠すための煙幕に過ぎない。坂本悠花里には才能がある。『白の花実』は、完璧な映画ではない。むしろ、欠陥だらけの映画だ。しかしその欠陥は、新人監督の野心の証でもある。誰かを強く惹きつける映画は、必然的に誰かを遠ざける。『白の花実』は、そういう映画だ。美しい映像と若い才能だけでは、110分を支えきれない。次作では、この美学にもう少し強固な物語の骨格が加わることを期待したい。

画像

コメント

タイトルとURLをコピーしました