
ジュン・ロブレス・ラナ監督の『アバウトアス・バット・ノット・アバウトアス』(原題:About Us But Not About Us、2022年)は、90分間のリアルタイムで進行する会話劇という極めてミニマルな形式で、驚くほど多層的なテーマを展開する傑作である。マニラのボニファシオ・グローバル・シティにあるイタリアンレストラン「L’Opera Ristorante」のテーブル一席。登場するのは、孤独なフィリピン文学教授エリック(ロムニック・サルメンタ)と、若き作家志望の学生ランス(イライジャ・カンラス)。この二人の男性による昼食の会話が、徐々に不穏で戦慄的な様相を帯びていく。
『晩餐』との比較と逸脱
本作はしばしば、ルイ・マル監督の『晩餐』(My Dinner with Andre、1981年)との比較で語られる。確かに、レストランでの長時間会話という設定は共通している。しかし、マルの映画が知識人による哲学的対話であったのに対し、ラナの映画は心理的サスペンスであり、権力闘争であり、告発の場である。冒頭は穏やかな再会のように見えるが、会話が進むにつれて、この出会いが決して偶然ではなく、綿密に計画されたものであることが明らかになる。
エリックは鏡で目の下のクマを確認し、保湿クリームを塗る。この冒頭の小さな仕草が、彼の年齢に対する不安と、ランスに対する関心が単なる師弟関係を超えている可能性を暗示する。一方、ランスは既にテーブルで待っている。二人の力関係は、この時点では明確ではない。教授と学生という立場が示す権力勾配は、会話が進むにつれて複雑に転倒していく。
亡き恋人マルコスという不在の中心
会話の中心にいるのは、実は登場しない第三の人物、エリックの恋人であった人気小説家マルコスである。マルコスは最近亡くなり、彼が生前に書いた初のタガログ語小説が遺作として残された。この小説は、三角関係を扱った文学的なポットボイラーであり、エリックとランスとマルコスの関係を描いたものだと言われている。しかし、その小説は「彼ら(us)について」であると同時に「彼らについてではない(not about us)」。
ラナ監督は、劇場的な手法を用いて、エリックとランスがそれぞれ語るマルコスとの過去の場面を再現する。その際、エリックまたはランスが不在のマルコスの役を演じる。つまり、観客が見るマルコス像は、常にエリックかランスのフィルターを通したものであり、客観的な真実は決して明らかにならない。記憶は主観的であり、語り手の意図によって歪められる。
世代間の権力闘争と操作
40歳のエリックと若いランスの対話は、表面的には教師と教え子の再会である。エリックは、ランスに対して特別な配慮を示してきた教授であり、ランスはその好意に感謝する優等生である。しかし、会話が進むにつれて、この構図が崩れていく。
ランスは巧妙にエリックを操作しているのではないか。彼は無邪気で迷える若者を演じながら、実際にはエリックの欲望を見抜き、利用しているのではないか。一方、エリックは本当に無自覚なのか、それとも自らが操作されることを享楽しているマゾヒストなのか。劇中で示唆される、想像上のマルコスとの会話は、エリックが実は支配されることを求めているという可能性を提示する。
ラナの脚本は、どちらが加害者でどちらが被害者かを明確にしない。権力は不安定に揺れ動き、観客は誰の語りを信じるべきか判断を迫られる。エリックは年齢と地位による権力を持つが、ランスは若さと無邪気さという武器を持つ。そしてSNS世代の危うさという現代的なテーマも織り込まれる。
アイデンティティの演技と「本物」の不可能性
本作の最も洗練されたテーマは、アイデンティティと創作の関係である。ランスは後半で「私たちは自分自身の虚構の対応物には決して敵わない」と語る。私たちは自分自身のために作り上げた虚像と、他者が投影した虚像の間に存在する。
エリックとランスの両者とも、完全に「本物」ではない。エリックは英文学教授でありながら、マルコスの遺作がタガログ語で書かれたことに複雑な感情を抱く。ランスもまた、英語学部からタガログ語学部への転科を考えている。この言語の選択は、「本物らしさ(authenticity)」への希求を象徴している。しかし、どちらの言語を選んでも、真の自己を表現できるわけではない。アイデンティティは常に演技であり、他者との関係の中で構築される。

LGBTQ+、性加害、パンデミック: 重層するテーマ
ラナは90分間のワンシチュエーション会話劇に、驚くほど多くのテーマを盛り込んでいる。LGBTQ+の葛藤、クローゼットのクィアネス、聖職者による性的虐待、権力関係、オンラインセックス、自殺、そしてパンデミックへの言及。コロナ禍という設定は、隔離とプロトコルという現代的文脈を提供すると同時に、予期せぬ死というマルコスの不在を際立たせる。
しかし、これらのテーマは説明的に語られるのではなく、会話の中で有機的に浮かび上がる。ラナの脚本の巧みさは、各テーマが独立しているのではなく、エリックとランスの関係性を通じて絡み合っている点にある。一部の批評家は「心を麻痺させるほど次々と明かされる衝撃的な真実」を指摘したが、それこそがこの映画の狙いである。会話とは本来、予測不可能な展開を持つものであり、一つの開示が次の開示を誘発する。
俳優の技量とミニマリズムの力
ロムニック・サルメンタとイライジャ・カンラスの演技は、本作の核心である。二人は椅子から立ち上がることすらほとんどなく(ランスがトイレに立つ場面は重要な転換点となる)、声のトーンと表情だけで膨大な感情の幅を表現する。サルメンタは不安と欲望を抱えた中年教授を、カンラスは小悪魔的な美青年を演じる。カンラスは座ったままで、驚異的な演技の幅を見せる。
5日間の撮影、その前日に脚本読み合わせという極めてタイトなスケジュールで作られた本作は、フィリピン映画では珍しいミニマリズムの試みである。ラナ自身が「鬱の時期に作った個人的なプロジェクト」と語るように、本作は虚構と告白の境界にある。監督は3日間連続で脚本を書き上げ、自身の幼少期のトラウマから着想を得たという。
ラストの曖昧さと裏切り
映画のエンディングは意図的に曖昧である。虚構を維持するのか、それとも拒絶するのか。選択が示唆されるが、明確な答えは提示されない。そして最後の裏切りの行為は、それまでの会話すべてを新たな光で照らし出す。ランスがトイレから戻った後、何が起こったのか。その行為が示すのは、復讐か、支配の確認か、それとも愛の歪んだ形か。
ラナは「時には感情が真実よりも重要である」という台詞を通じて、この曖昧さを擁護する。客観的な真実は存在しないかもしれない。存在するのは、二人の男性がそれぞれ抱く主観的な記憶と、それに基づいて構築される関係性だけである。
結論: 会話劇という究極の形式
『アバウトアス・バット・ノット・アバウトアス』は、会話劇という形式の可能性を極限まで押し広げた作品である。タリン・ブラックナイツ映画祭批評家賞をはじめ、国内外で20近い賞を受賞し、本国では舞台化も決定している。ラナは、最小限のリソース(二人の俳優、一つのロケーション、90分のリアルタイム)から、最大限の心理的緊張を生み出した。
この映画が提示するのは、人間関係の不透明さ、記憶の主観性、アイデンティティの演技性、そして真実と虚構の区別不可能性である。エリックとランスの会話は、観客にも多くの会話を生み出すだろう。レストランを出た後、観客は自分自身の記憶と関係性について考え込まずにはいられない。それこそが、この洗練された会話劇が持つ力である。


クライマックスについてはもう一波乱あるのではないかと余韻を残すとは児玉さん評


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