
デジタルビデオが可能にした3時間の悪夢
デイヴィッド・リンチが2006年に発表した『インランド・エンパイア』(INLAND EMPIRE)は、彼の長編映画の中で最も理解困難な作品だ。上映時間180分。デジタルビデオ撮影。脚本なし。物語の断片が無秩序に積み重なり、因果関係は崩壊し、登場人物のアイデンティティは溶解する。
リンチはこの映画を、ソニーのPD150というデジタルビデオカメラで撮った。フィルムではない。この選択が決定的だった。デジタルビデオは安価で、軽量で、長時間撮影が可能だ。リンチは大規模なクルーを組まず、少人数のチームで、思いついたシーンを即座に撮影した。脚本は存在せず、撮影しながら物語を「発見」していった。
結果として『インランド・エンパイア』は、リンチの無意識がそのまま映像化されたような作品になった。編集も論理的な物語構成を放棄している。シーンとシーンの間に明確な因果関係はない。観客は、リンチの脳内を彷徨うように、この3時間の迷宮を彷徨う。
しかしこの「理解不可能性」こそが、『インランド・エンパイア』の核心だ。リンチは意図的に、観客を混乱させる。なぜなら混乱こそが、この映画のテーマだからだ。映画を撮ること、演じること、見ること。これらすべてが、アイデンティティの喪失と恐怖を伴う。『インランド・エンパイア』は、その恐怖の地図だ。

ローラ・ダーンという分裂する主体
主演のローラ・ダーンは、複数の役を演じる。あるいは、複数の役に分裂していく。彼女はまず、ハリウッド女優ニッキー・グレイスとして登場する。ニッキーは新作映画『暗い明日の中で』のオーディションに合格し、主演女優となる。彼女が演じる役の名前はスーザン・ブルー。
しかし撮影が進むにつれ、ニッキーとスーザンの境界が曖昧になる。ニッキーはスーザンの人生を生き始める。あるいはスーザンがニッキーの人生に侵入する。さらに映画の中で、ポーランドの売春婦という第三の人格が出現する。ダーンは、これら三つ(あるいはそれ以上)の役を同時に演じる。
リンチのカメラは、ダーンの顔を執拗にクローズアップで捉える。デジタルビデオの粗い画質が、彼女の顔の毛穴、皺、化粧の乱れを容赦なく映し出す。この醜悪なまでの接近が、恐怖を生む。我々はダーンの顔を「見すぎる」。そして見すぎることで、彼女が誰なのかわからなくなる。
ダーンの演技は、狂気と正気の境界を行き来する。彼女は泣き叫び、笑い、怯え、攻撃する。しかし重要なのは、彼女自身がこの分裂を理解していないことだ。ニッキー/スーザン/売春婦は、自分が誰なのか知らない。ただ恐怖の中で彷徨う。この彷徨が、180分間続く。
リンチはダーンに、『ブルーベルベット』(1986)と『ワイルド・アット・ハート』(1990)で既に重要な役を与えていた。しかし『インランド・エンパイア』のダーンは、それまでのどの役とも異なる。彼女はリンチの「分身」として機能する。映画作家が俳優に要求する変身。その変身の暴力性が、ダーンの身体と顔を通じて表現される。

ウサギのシットコム 笑えない笑い声の地獄
『インランド・エンパイア』の中に、突然「Rabbits」という奇妙なシットコムが挿入される。三匹の人間サイズのウサギが、薄暗い部屋でソファに座り、意味不明な会話を交わす。録音された笑い声が、不規則なタイミングで挿入される。しかし何も面白くない。
このウサギたちは、実は2002年にリンチがウェブサイトで公開した短編シリーズからの流用だ。ナオミ・ワッツ、ローラ・ハリング、スコット・コフィーがウサギの着ぐるみを着て演じている。彼らの会話は断片的で、文脈がない。「何時ですか?」「わかりません」「誰かドアを」。これらの台詞は、日常会話の外殻だけを残し、意味を剥ぎ取られている。
録音された笑い声は、テレビシットコムの慣習的な装置だ。しかし『インランド・エンパイア』では、この笑い声が恐怖装置として機能する。なぜなら我々は、何に笑っているのかわからないからだ。笑い声は機械的に挿入される。まるで誰かが我々に「ここで笑え」と命令しているかのように。
ウサギのシーンは、映画全体の縮図だ。俳優は着ぐるみを着せられ、意味不明な台詞を言わされる。観客(録音された笑い声)は、理解できないまま反応を強制される。これは映画制作と受容のメカニズムそのものだ。そしてこのメカニズムは、恐怖に満ちている。
ポーランドという亡霊 呪われた映画の起源
『暗い明日の中で』、つまりニッキーとスーザンが出演している映画は、実はリメイクだという。オリジナルはポーランドで撮られたが、完成しなかった。主演の男女が殺されたからだ。この「呪われた映画」の設定が、物語全体を支配する。
ポーランドのシーンは、デジタルビデオの粗い画質と相まって、記録映像のような質感を持つ。売春婦たちが暗い部屋で会話する。ポーランド語の台詞には字幕がない。我々は彼女たちが何を話しているのかわからない。ただ恐怖と抑圧の雰囲気だけが伝わる。
リンチにとってポーランドは、単なる地理的な場所ではない。それは「起源」の隠喩だ。映画の起源、暴力の起源、呪いの起源。そしてこの起源は、決して明かされない。ニッキー/スーザンがポーランドの記憶に侵食されるが、その記憶が本当に彼女のものなのか、映画の役のものなのか、区別がつかない。
ポーランドの売春婦たちは、ハリウッド女優ニッキーの「影」だ。スタジオで撮影される豪華な映画と、暗い部屋で行われる売春。この対照は、映画産業と性産業の同型性を暗示する。女優も売春婦も、見られることで生計を立てる。身体を商品化する。そしてこの商品化が、アイデンティティの喪失を引き起こす。

ハリウッドという迷宮 サンセット大通りの悪夢
『インランド・エンパイア』の舞台は主にロサンゼルスだ。しかしリンチが撮るロサンゼルスは、『マルホランド・ドライブ』(2001)のそれとも異なる。『マルホランド・ドライブ』は、ハリウッドの夢と悪夢を視覚的に美しく撮った。しかし『インランド・エンパイア』のハリウッドは、ただ醜い。
デジタルビデオのカメラは、街の汚れを容赦なく映す。サンセット大通りの娼婦たち、ホームレス、薄汚れた建物。これらは観光案内のロサンゼルスではない。リンチが実際に歩いた、リンチが見た、ロサンゼルスの裏側だ。
ニッキーは、撮影スタジオと自宅と、そしてどこか知らない暗い通りの間を彷徨う。彼女がどこにいるのか、我々にはわからない。スタジオの中なのか、外なのか。映画の中なのか、現実なのか。この空間的混乱は、ハリウッドという場所そのものの本質を暴く。
ハリウッドは、虚構を生産する工場だ。しかしその工場で働く人々は、虚構と現実の区別を失う。リンチ自身が、40年間ハリウッドで映画を作り続けた監督だ。『インランド・エンパイア』は、彼の自己批判でもある。映画を作ることは、俳優を分裂させ、観客を混乱させ、現実を歪める。そしてこの歪みから、誰も逃れられない。
ジェレミー・アイアンズの予言 「もっとも古い物語」
映画の序盤、謎の隣人(グレース・ザブリスキー)がニッキーの豪邸を訪れる。彼女は不吉な予言をする。「もっとも古い物語」について。善と悪、迷路の中の女。そしてこの物語は、繰り返される。
ニッキーの共演者、俳優デヴォン(ジェスティン・セロー)の役にキャスティングされたジェレミー・アイアンズも、映画の撮影前にニッキーに語る。「この映画には呪いがある」と。しかし彼の警告は、単なる迷信として無視される。
しかし映画が進むにつれ、この「もっとも古い物語」が実際に展開されていることがわかる。ニッキー/スーザンは迷宮に閉じ込められる。彼女は出口を探すが、見つからない。そして彼女は、過去の女たち—ポーランドの売春婦たち—と同じ運命を辿る。
リンチは、映画の歴史全体を「もっとも古い物語」の反復として描く。無垢な女性が、男性の欲望によって堕落させられる。この物語は、グリフィスからヒッチコックまで、無数の映画で反復されてきた。そして『インランド・エンパイア』もまた、この反復の一部だ。しかしリンチは、この反復そのものを問題化する。なぜ我々は、同じ物語を繰り返し見たいのか? なぜ映画は、女性の苦しみを娯楽として消費するのか?
結末なき終わり 永遠に続く迷宮
『インランド・エンパイア』には、明確な結末がない。180分の彷徨の後、ニッキー/スーザン/売春婦は、ハリウッド大通りの歩道に座っている。傷ついて、泣いている。見知らぬ女性(ローラ・ハリング)が彼女に近づき、何かを囁く。彼女は立ち上がる。
そして突然、シーンは変わる。明るい部屋。ポーランドの女性が、テレビを見ている。画面には、ウサギのシットコムが映っている。女性は微笑む。誰かがドアをノックする。彼女はドアを開ける。そこには男がいる。彼らは抱き合う。
このハッピーエンド(?)は、唐突だ。それまでの180分の悪夢と、全く接続しない。まるで別の映画のエンディングが、誤って挿入されたかのようだ。しかしこの非=接続こそが、リンチの意図だ。
『インランド・エンパイア』は、解決を拒否する。謎は解かれず、分裂したアイデンティティは統合されず、迷宮には出口がない。我々は180分間、ニッキー/ダーンと共に彷徨い、そして映画は終わる。しかし終わりは、本当の終わりではない。ポーランドの女性が見ているテレビには、まだウサギのシットコムが流れている。録音された笑い声が響く。つまり悪夢は、まだ続いている。
結論 映画の死、あるいは映画の極限
『インランド・エンパイア』は、デイヴィッド・リンチの最後の長編映画となった。この後リンチは、『ツイン・ピークス The Return』(2017)という18時間の超大作をテレビシリーズとして発表するが、劇場用長編映画は撮っていない。そして2025年1月16日、リンチは78歳で死去した。
『インランド・エンパイア』は、リンチが映画というメディアを極限まで押し進めた結果だ。彼は物語を解体し、アイデンティティを分裂させ、因果関係を破壊した。観客は混乱し、批評家は困惑した。しかしこの混乱と困惑こそが、リンチの最終的なメッセージだ。
映画は、理解されるべきものではない。映画は、体験されるべきものだ。そしてその体験は、しばしば恐怖を伴う。『インランド・エンパイア』を見ることは、3時間の悪夢を見ることだ。しかしこの悪夢から目覚めた後、我々は映画を、そして現実を、違う目で見るようになる。
ローラ・ダーンの分裂した顔、ウサギの録音された笑い声、ポーランドの暗い部屋。これらのイメージは、論理的には接続しない。しかし感情的には、深く共鳴する。リンチが信じていたのは、論理ではなく、感情の論理だ。無意識の論理だ。そしてこの論理は、言葉では説明できない。ただ映像で示すしかない。
『インランド・エンパイア』は、映画史上最も難解な作品の一つだ。しかし同時に、最も誠実な作品でもある。リンチは、観客に嘘をつかない。彼は、映画を作ることの恐怖、演じることの暴力性、見ることの責任を、隠蔽せずに提示する。デジタルビデオの粗い画質で、180分間、容赦なく。この容赦のなさが、『インランド・エンパイア』を傑作にしている。理解できなくても、忘れられない傑作に。


コメント