ブルーハーツ、ヒップホップ、そしてゴダール: 児山隆『万事快調〈オール・グリーンズ〉』~草場尚也『雪子 a.k.a.』~山下敦弘『リンダリンダリンダ』横断的作品論

新作評
画像

児山隆監督の『万事快調〈オール・グリーンズ〉』(2026年)、草場尚也監督の『雪子 a.k.a.』(2025年)、そして山下敦弘監督の『リンダリンダリンダ』(2005年)。この三作品はいずれも音楽を通じて自己を発見し、現実と向き合う主人公たちを描いている。しかし、その音楽の機能、主人公が置かれた社会的文脈、そして物語の帰結には顕著な違いがある。三作品を比較することで、日本映画における「音楽×青春」というモチーフの変遷と、各監督が提示する若者像の差異が浮かび上がってくる。

音楽の機能: 逃避か、自己表現か、犯罪の道具か

『リンダリンダリンダ』において、音楽は純粋な自己表現と連帯の手段である。文化祭を3日後に控え、バンドが空中分解した高校生たちが、韓国人留学生ソン(ペ・ドゥナ)をボーカルに迎え、ブルーハーツのコピーに挑む。彼女たちにとって音楽は、複雑な動機や社会批判を伴わない、ただひたむきに演奏することの喜びである。山下敦弘監督は長回しと間の多い演出で、練習を重ね、連帯感を育む少女たちの姿を淡々と捉える。文化祭当日、寝坊して雨に濡れながら駆けつけた彼女たちがステージで演奏する場面は、達成感と青春の輝きを純粋に肯定する。

画像

一方、草場尚也監督の『雪子 a.k.a.』では、ラップは自己発見の手段であると同時に、29歳の小学校教師・雪子(山下リオ)が抱える不安と抑圧を吐き出す場所である。恋人からの古い価値観、保護者からの圧力、不登校の生徒への無力感。雪子は日常で本音を言えず、「いい先生」「いい彼女」を演じ続けている。ラップだけが彼女が本音を言える場所だと思っていたが、フリースタイルバトルでディスられ、それさえも否定される。ヒップホップの本質である「自分とは何者であるかを定義づける営み」を通じて、雪子はa.k.a.(またの名は)の先に自分自身を見つけていく。音楽は自己肯定のツールであり、社会的プレッシャーへの抵抗である。

そして児山隆監督の『万事快調〈オール・グリーンズ〉』では、音楽はより複雑な位置を占める。茨城県東海村の工業高校に通う三人の女子生徒、ラッパー志望のヒデミ(南沙良)、陸上選手のミルク(出口夏希)、漫画オタクのマコ(吉田美月)は、表向きは園芸部「オール・グリーンズ」を名乗るが、実際には学校の屋上で大麻を栽培している。ヒデミのラップは単なる自己表現ではなく、原発の町から抜け出すための手段である。彼女のMC名「Neuromancer」は原発と核のイメージを想起させる。音楽は逃避と犯罪と希望が混ざり合った、複雑な動機に支えられている。児山監督自身が「映画的な青春を持たなかった」と述べているように、『万事快調』の青春は美化されていない。音楽、アニメ、SF小説などのサブカルチャーは、現実逃避の手段であると同時に、絶望的な現実を生き延びるための武器である。

画像

社会的文脈: 文化祭、30歳の壁、地方の閉塞感

三作品の主人公が置かれた社会的文脈も大きく異なる。『リンダリンダリンダ』の舞台は高校の文化祭である。期限は3日間。この明確な時間制約が物語に推進力を与え、観客に達成感をもたらす。しかし、彼女たちが直面する困難は基本的に内的なもの(練習不足、メンバー間の微妙な関係)であり、社会構造に由来する抑圧ではない。2005年という時代、山下監督はまだ青春を素朴に肯定できた。

『雪子 a.k.a.』は2025年、つまり現代の物語である。雪子が直面するのは30歳という年齢の壁、ジェンダー規範(結婚したら家に入って欲しいという恋人の要求)、教育現場の複雑さ(不登校問題に簡単な解決策はない)、そして自己肯定感の欠如である。草場監督は「不安に生きる全ての人に贈る」と述べており、雪子の物語は特定の世代や職業を超えた普遍性を持つ。しかし同時に、29歳の女性教師という具体的な立場から生まれる抑圧を丁寧に描いている。

『万事快調』の社会的文脈はさらに厳しい。茨城県東海村という原発の町、工業高校というカースト構造、家庭内暴力や親の妄想といった家族問題。三人の少女たちは「90年代LAのコンプトンのように、ここから抜け出すにはディーリング(麻薬売買)かラップしかない」という状況に置かれている。彼女たちの犯罪は道徳的に肯定できるものではないが、児山監督はそれを単純に断罪しない。代わりに、システムそのものの閉塞感を問題化する。「ラッパーは逮捕されてから本当に売れる」という劇中のジョークは、成功への道が犯罪と隣り合わせであることを示唆している。

達成と挫折: エンディングの違い

三作品のエンディングは、それぞれの音楽観と社会観を象徴している。『リンダリンダリンダ』のクライマックスは、文化祭のステージで「リンダリンダ」を演奏する場面である。雨に濡れて登場した彼女たちの演奏は完璧ではないが、それでも観客は熱狂し、達成感が溢れる。山下監督自身、当初は「ライブに完全に間に合わない」というアイデアを持っていたが、周囲の反対でギリギリ間に合う形にしたと述べている。この選択が、『リンダリンダリンダ』をストレートなカタルシスを持つ青春映画にした。

『雪子 a.k.a.』のエンディングはより内省的である。雪子は30歳の誕生日を迎え、フリースタイルバトルに再挑戦する。今度は苦手なディスではなく、自分の言葉で、自分自身について語る。勝ち負けではなく、「Be Myself(自分自身であること)」という主題歌のメッセージ通り、雪子はa.k.a.の先に自分を見つける。草場監督は「殻を破る」瞬間を、派手な成功ではなく、小さな一歩として描く。

『万事快調』のエンディングは最も曖昧である。温室が燃え、大麻は失われ、三人はそれぞれ3万円ずつ手にするが(ミルクの母親に燃やされる)、学校には発覚する可能性が残る。しかし、三人は意外にもレジリエント(回復力がある)に見える。完全な成功でもなければ、完全な失敗でもない。児山監督が意図したのは、「青春映画を作れなかった者が、青春映画を作ることで得た青春」という自己言及的な構造である。三人の少女たちの物語は、監督自身の物語でもある。

音楽ジャンルの選択: ブルーハーツ、ヒップホップ、そしてゴダール

興味深いのは、各作品が選んだ音楽ジャンルである。『リンダリンダリンダ』はブルーハーツ、つまり日本のパンクロックを選んだ。ブルーハーツの初期衝動と直情的なメッセージは、高校生の純粋さと重なる。一方、『雪子 a.k.a.』と『万事快調』はともにヒップホップを選んだ。ヒップホップはもともとマイノリティの自己表現と抵抗の音楽であり、社会的抑圧を可視化する機能を持つ。雪子にとってのヒップホップは個人的な抵抗、ヒデミにとっては階級闘争の武器である。

そして『万事快調』というタイトル自体が、ゴダール/ゴランの政治映画『万事快調』(Tout va bien、1972年)から取られている。原題は皮肉であり、「何も快調ではない」という意味を含む。児山監督はこの引用を通じて、『万事快調』を単なる青春映画ではなく、システム批判の物語として位置づける。ヒデミたちがDos Monosの庄司itをスコアに起用し、NIKO NIKO TAN TANの楽曲をテーマソングに使い、さらに作中で大量のSF文献に言及するのも、サブカルチャーを通じた抵抗の系譜に自分たちを位置づける試みである。

結論: 音楽映画の変遷が映す時代の変化

『リンダリンダリンダ』から『雪子 a.k.a.』、そして『万事快調』へ。この20年間の変遷は、日本社会における若者の置かれた状況の変化を反映している。2005年、青春はまだ純粋に肯定できるものだった。2025年、青春は自己肯定感の獲得という困難な作業になった。そして2026年、青春は犯罪と隣り合わせの、システムからの脱出の試みになった。

しかし三作品に共通するのは、音楽が人を変える力を持つという信念である。ソンたちは「リンダリンダ」を演奏することで連帯を知った。雪子はラップを通じて自分自身であることを学んだ。ヒデミたちは大麻栽培という犯罪に手を染めながらも、音楽とサブカルチャーを通じて未来への希望を捨てなかった。

児山監督の『万事快調』は、『リンダリンダリンダ』の素朴な肯定でもなく、『雪子 a.k.a.』の内省的な自己発見でもない。それは、閉塞した社会で生き延びるために犯罪さえ辞さない若者たちの、絶望と希望が混ざり合った物語である。そしてその物語を語ること自体が、監督にとっての「青春」なのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました