
ポール・W・S・アンダーソンとミラ・ジョヴォヴィッチのコンビ最新作『ロストランズ 闇を狩る者』は、ジョージ・R・R・マーティンの短編を原作とするダークファンタジーだ。しかし本作を観て痛感するのは、アンダーソンが自身の強みを見失い、2010年代の「中予算ファンタジーの失敗作」の轍を踏んでしまったことだ。
本作の構造は、ドミニク・セナの『デビルクエスト』(2011)と酷似している。魔女(または魔女と疑われる存在)を護送する旅、教会権力との対立、道中で待ち受ける超自然的な脅威、そして最終的に明かされる「真の敵」。ニコラス・ケイジとロン・パールマンが魔女を修道院へ護送する『デビルクエスト』は、まさに『ロストランズ』のプロトタイプにも見える。両作品とも、「リアル版RPG」を標榜しながら、結局はB級ファンタジーの範疇に収まる。違いは、『デビルクエスト』が96分で完結するのに対し、『ロストランズ』は100分という尺でも冗長に感じる点だ。
さらに比較すべきは、マイケル・J・バセットの『ソロモン・ケーン』(2009)だろう。ロバート・E・ハワードの剣と魔法の世界を描いた同作は、予算不足ながらも独特のダークな魅力を持っていた。孤独な戦士が贖罪を求めて魔物と戦う物語、荒廃した世界観、教会と異端の対立。これらの要素は『ロストランズ』と完全に重なる。しかし決定的な違いがある。『ソロモン・ケーン』は、低予算を逆手に取り、泥臭く血生臭いアクションに徹した。一方『ロストランズ』は、「最先端のデジタル技術」を謳いながら、中途半端なCG魔物との戦闘に終始する。

ここで問われるべきは、アンダーソンの真骨頂とは何かだ。彼の最大の成功作『バイオハザード』シリーズ(2002-2016)は、100分のノンストップアクションという様式美を確立した。複雑な物語も深いキャラクター描写も不要。ミラ・ジョヴォヴィッチが銃を撃ち、剣を振るい、超人的なアクションを繰り広げる。それだけで成立する快楽原則。『バイオハザード』が6作も続いた理由は、アンダーソンがこの原則を一度も裏切らなかったからだ。
しかし『ロストランズ』は、その原則を放棄する。魔女と案内人の「孤独な魂の交流」、教会と自由の対立、呪われた運命。これらのテーマは、確かにマーティンらしい。だがそれを100分で描くには窮屈すぎる。結果として、アクションは散発的で、ドラマは表層的、世界観は説明不足という、三重の失敗に陥っている。
アンダーソンの旧作『モンスターハンター』(2020)との比較も興味深い。同作もまた、異世界に迷い込んだ主人公(ミラ)が案内人(トニー・ジャー)と旅をする構造を持つ。しかし『モンスターハンター』は、ゲーム原作という強みを活かし、巨大モンスターとの戦闘に特化した。物語の深みは犠牲にされたが、ビジュアルスペクタクルとしては成立していた。『ロストランズ』は、その逆だ。物語的野心を持ちながら、ビジュアル面でも物語面でも中途半端に終わっている。

デイヴ・バウティスタの起用も疑問だ。元プロレスラーという肉体派は、確かに案内人役に説得力を与える。しかし彼は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で証明したように、コメディリリーフとして輝く俳優だ。シリアスな孤独の戦士役は、彼の持ち味を殺している。むしろ『デビルクエスト』のロン・パールマンのような、野性的でありながらユーモアも兼ね備えた演技が求められていた。
唯一の救いは、ミラ・ジョヴォヴィッチの存在感だ。50歳近くになっても、彼女のアクションは衰えていない。二丁拳銃、大鎌、幻影魔法——彼女は相変わらず、スクリーン上で最もカッコいい女性アクションスターだ。しかし問題は、彼女の魅力を引き出すには、『バイオハザード』のような単純明快な構造が必要だったことだ。

『デビルクエスト』や『ソロモン・ケーン』といった先行作品が示したのは、中予算ダークファンタジーの成功には、「割り切り」が必要だということだ。低予算ならば泥臭く、高予算ならば壮大に。しかし中予算では、どちらかに振り切らなければ中途半端になる。『ロストランズ』は、まさにその罠にはまった。
結論として、本作はアンダーソンが自分の強みを見失った作品だ。彼は『バイオハザード』で、B級アクションの快楽原則を確立した。しかし『ロストランズ』では、文学性と世界観構築という、彼が最も不得手とする領域に踏み込んでしまった。ファンタジーの壮大さではなく、アクションの純度こそが、アンダーソンの真価なのだから。


コメント