
映画雑誌『映画芸術』の2025年日本映画ランキングで、李相日監督の『国宝』がワースト1位に選ばれた。吉沢亮が主演し、歌舞伎界を描いたこの作品は、観客動員1286万人、興行収入181億円を突破し、邦画実写史上最高の記録を樹立した話題作である。批評家40名以上の投票で高田宏治氏の「魂を売る」などの厳しいレビューが目立ったというが、果たしてこの作品は本当にワースト1位と言えるのか。
一方、ベスト1位は編集発行人・荒井晴彦氏監督の『星と月は天の穴』で、三宅唱監督の『旅と日々』がベストとワーストの両方にランクインするなど意見が分かれた。過去にも『おくりびと』などをワーストに選ぶ独自の視点が、映画談義を盛り上げてきたとされるが、その「独自の視点」とは何なのか。本稿では、『国宝』がワースト1位ではない理由を論じるとともに、『映画芸術』という雑誌の体質について考察したい。
『国宝』が達成した歴史的快挙
まず、『国宝』が成し遂げた実績を確認しておこう。2025年6月6日に公開されたこの作品は、初週興行収入3億4600万円、ランキング3位でスタートした。決して派手な滑り出しではなかった。しかし、口コミで評判が広がり、2週目から前週を上回る興収をたたき出していく。3週目からは4週連続で首位に立ち、8月には興収100億円を突破。11月24日には173億7000万円を達成し、22年ぶりに『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の記録(173億5000万円)を超え、邦画実写歴代1位の座についた。
さらに、第78回カンヌ国際映画祭「監督週間」部門で上映され、6分間に及ぶスタンディングオベーションを浴びた。第98回米アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表に選出され、国際長編映画賞とメイク&ヘアスタイリング賞の2部門でショートリスト入りを果たした。第38回東京国際映画祭では黒澤明賞を受賞。第49回日本アカデミー賞では正賞12部門16賞を受賞し、第80回毎日映画コンクールでも日本映画大賞を受賞した。
これだけの実績を持つ作品を、ワースト1位に選ぶ。その理由は何か。
李相日監督の演出力と奥寺佐渡子の脚本の妙
『国宝』は、吉田修一の長大な原作小説を約3時間の映画に凝縮した作品である。原作者の吉田は3年間、歌舞伎の黒衣を纏い、楽屋に入った経験をもとにこの小説を書き上げた。物語は戦後から高度経済成長期の日本を舞台に、極道の息子として生まれ、抗争によって父を亡くした後、上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎(渡辺謙)に引き取られた喜久雄(吉沢亮)の50年の軌跡を追う。
脚本を担当した奥寺佐渡子は、この長大な物語の要所を巧みにまとめた。李相日監督の演出も、2人の歌舞伎役者の波瀾万丈の運命を一気に見せて時間を感じさせない。約3時間という長尺にもかかわらず、観客は前のめりにスクリーンを見つめる。李監督は「昔の映画の中でしか見たことがない光景でした。ご高齢の方から中高生の若者まで、男女を問わず満場の観客が3時間もの間、前のめりに同じスクリーンを見つめる」とコメントしている。
李監督は日本育ちの在日コリアン3世で、韓国メディアに対して「外部から来た喜久雄が歌舞伎という閉鎖的な世界に入っていく点は、境界人としてのアイデンティティーと重なる部分がある」と語っている。この視点が、『国宝』に普遍性を与えている。歌舞伎という閉鎖的な世界を描きながら、そこに「外部からの眼差し」を持ち込むことで、観客は喜久雄に感情移入できる。
吉沢亮と横浜流星の圧倒的な演技
『国宝』の成功の最大の要因は、吉沢亮と横浜流星という二人の俳優の圧倒的な演技にある。李相日監督は『悪人』『怒り』などで俳優の演技を極限まで引き出すことで知られているが、本作でもその手腕は遺憾なく発揮されている。
吉沢亮は、女形として類まれな才能を持ちながら血筋を持たない喜久雄を演じた。横浜流星は、半二郎の実の息子として将来を約束された御曹司・俊介を演じた。二人の対比が、この作品の核心である。才能か、血筋か。芸道とは何か。人間国宝とは何か。これらの問いが、二人の演技を通じて観客に突きつけられる。
特に吉沢亮の演技は、賛否両論を呼んだ。彼の女形は、「美しすぎる」という批判もあれば、「完璧」という賞賛もある。しかし、この賛否両論こそが、『国宝』という作品の本質を示している。喜久雄は、完璧すぎるがゆえに人間的な温かみを欠いていると批判される。しかし、その完璧さこそが、彼の孤独を表現している。吉沢亮の演技は、その孤独を見事に体現している。
製作費12億円という挑戦
『国宝』の製作費は12億円と言われている。日本映画としては破格の金額だが、ハリウッドでは平均で20億円、欧州でも10億円の製作費はごく普通である。『国宝』は、大がかりな歌舞伎の舞台を再現し、約3時間の映画を作り上げた。この製作費で、これだけのクオリティを実現したことは驚異的である。
製作の中心となったMYRIAGON STUDIOは、ソニー・ミュージックグループ傘下にあって、『鬼滅の刃』などのアニメ製作会社アニプレックスの子会社である。これが初めての実写映画製作だった。村田千恵子プロデューサーは、李監督の構想を妥協せずに実現することを目指した。当初から海外市場への参入を視野に入れて、脚本を精査。2025年5月のカンヌ国際映画祭での世界初披露を目標に設定した。
日本映画界では往々にして、脚本の内容から製作費を算出するよりも、まず製作費の枠を決め、その中で可能な表現を模索する。その結果、妥協と諦めの産物になりがちだ。『国宝』は、その悪習を打破した。李監督は「全てそろえる」を貫いた。その結果が、この歴史的快挙である。
『映画芸術』のワースト選出の意図
では、なぜ『映画芸術』は『国宝』をワースト1位に選んだのか。高田宏治氏の「魂を売る」という評は、おそらく『国宝』が商業的に成功しすぎたことへの批判だろう。『映画芸術』は、商業主義に対して批判的な立場を取ることで、自らのアイデンティティを保ってきた。
過去にも、『おくりびと』(2008年)をワーストに選んでいる。『おくりびと』は、アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、日本映画界に大きな影響を与えた。しかし、『映画芸術』はこれを「お涙頂戴」「偽善的」と批判した。同様に、『国宝』も「商業主義」「大衆迎合」として批判されたと考えられる。
しかし、この批判は的外れである。『国宝』は、決して大衆迎合の作品ではない。約3時間という長尺、歌舞伎という難解なテーマ、男2人の主人公。これらはすべて、商業的にはリスクが高い要素である。東宝をはじめ多くの企業が当初は出資をためらったという。それを李監督とMYRIAGON STUDIOが押し切り、製作を実現した。
結果として大ヒットしたからといって、それを「魂を売った」と批判するのは、あまりにも短絡的である。むしろ、『国宝』は、妥協せずに作り上げた作品が観客に受け入れられた好例である。
「流行った映画をこき下ろす」という体質
『映画芸術』のワーストランキングを見ると、ある傾向が見える。『国宝』(181億円)、『室町無頼』、『宝島』、『新幹線大爆破』など、商業的に成功した作品、あるいは話題になった作品が多くランクインしている。一方、ベストランキングには、荒井晴彦監督(『映画芸術』編集発行人)の『星と月は天の穴』が1位に選ばれている。
これは、偶然ではない。『映画芸術』は、流行った映画をこき下ろすことで、自らのアイデンティティを保とうとしている。「大衆が好むものは俗悪である」「商業的に成功した作品は芸術的に劣る」という前提に立っている。そして、自分たちだけが「真の芸術」を理解していると主張する。
しかし、この姿勢は極めて保守的である。なぜなら、それは「大衆」と「批評家」を対立させる二項対立の構図を固定化するからだ。大衆が評価する作品は芸術的に劣り、批評家が評価する作品こそが真の芸術である、という図式。この図式は、1960年代のATG(日本アート・シアター・ギルド)の時代から続く、古い映画批評の枠組みである。
三宅唱『旅と日々』がベストとワースト両方に
興味深いのは、三宅唱監督の『旅と日々』がベスト9位とワースト2位の両方にランクインしていることである。これは、『映画芸術』の批評家たちの間でも意見が分かれたことを示している。
『旅と日々』は、三宅唱が『きみの鳥はうたえる』(2018年)以来の長編劇映画である。約3時間の長尺で、日常の断片を積み重ねていく作品である。これは、明らかに「大衆受け」を狙った作品ではない。むしろ、『映画芸術』が評価しそうな、実験的で芸術的な作品である。
しかし、それでもワースト2位に選ばれた。おそらく、『旅と日々』が一部の批評家の間で高く評価されたことが、逆に批判の対象になったのだろう。「評価されすぎている」「過大評価」という批判である。
この現象は、『映画芸術』の体質をよく表している。『映画芸術』は、単に流行った映画を批判するだけではない。他の批評家が評価する作品も批判する。つまり、『映画芸術』は、常に「少数派」であり続けることで、自らの存在意義を保とうとしている。
吉田大八『敵』もベストとワーストの両方に
同様に、吉田大八監督の『敵』もベスト4位とワースト8位の両方にランクインしている。『敵』は、中村文則の原作小説を映画化した作品で、長塚京三が主演を務めた。これも賛否が分かれた作品である。
しかし、賛否が分かれることは、必ずしも悪いことではない。むしろ、それは作品が何かしらの問題提起をしている証拠である。『国宝』も、賛否が分かれている。しかし、それは『国宝』が単なる娯楽作品ではなく、芸道とは何か、人間国宝とは何か、という問いを投げかけているからだ。
編集発行人・荒井晴彦への忖度という問題
『映画芸術』のランキングには、さらに深刻な問題がある。それは、編集発行人である荒井晴彦氏の作品が、あまりにも頻繁にベスト1位に選ばれることである。
2025年のベスト1位は、荒井晴彦監督の『星と月は天の穴』である。荒井晴彦は、『映画芸術』の編集発行人であり、同誌の顔である。彼の作品がベスト1位に選ばれることは、それ自体は問題ではない。しかし、それが繰り返されると、疑念が生まれる。本当に『星と月は天の穴』が2025年の日本映画で最も優れた作品なのか、それとも、編集発行人への忖度なのか。
批評家40名以上が投票したとされるが、その批評家たちは『映画芸術』という雑誌に執筆する立場にある。編集発行人の作品を批判することは、自らの執筆の場を失うリスクを伴う。この構造的な問題を無視することはできない。
過去のランキングを見ても、荒井晴彦が脚本を担当した作品、あるいは彼が関与した作品が、高く評価される傾向がある。これは、偶然なのか、それとも意図的なのか。少なくとも、客観性を欠いていることは明らかである。
『映画芸術』は、商業的に成功した作品を「俗悪」として批判する一方で、編集発行人の作品を「芸術的」として称賛する。しかし、この基準は恣意的である。商業的成功と芸術的価値は、必ずしも対立するものではない。むしろ、『国宝』のように、両者を兼ね備えた作品こそが、真に優れた作品である可能性がある。
『映画芸術』が主張する「独自の視点」とは、結局のところ、編集発行人の好みを反映したものに過ぎない。批評家たちは、その好みに忖度し、ランキングを作り上げている。これは、批評ではなく、権威主義である。
結論 『映画芸術』の保守性と忖度体質
映画『国宝』は、ワースト1位ではない。それは、李相日監督が妥協せずに作り上げた、芸術的にも商業的にも成功した傑作である。吉沢亮と横浜流星の圧倒的な演技、奥寺佐渡子の緻密な脚本、12億円という製作費を最大限に活用した映像美。これらすべてが合わさって、観客を3時間スクリーンに釘付けにした。
181億円という興行収入は、決して「魂を売った」結果ではない。それは、「全てそろえる」という李監督の姿勢が、観客に受け入れられた結果である。カンヌ国際映画祭でのスタンディングオベーション、アカデミー賞のショートリスト入り、日本アカデミー賞の12部門16賞受賞。これらすべてが、『国宝』の芸術的価値を証明している。
一方、『映画芸術』は、流行った映画をこき下ろすことで、アイデンティティを保とうとする保守的な映画雑誌である。大衆が評価する作品を「俗悪」とし、自分たちだけが「真の芸術」を理解していると主張する。しかし、その姿勢は、1960年代から変わっていない。ATGの時代から続く、古い映画批評の枠組みに固執している。
さらに深刻なのは、編集発行人・荒井晴彦への忖度という構造的問題である。荒井氏の作品が頻繁にベスト1位に選ばれる状況は、批評の客観性を著しく損なっている。批評家たちは、執筆の場を失うリスクを避けるため、編集発行人の好みに忖度せざるを得ない。これは、もはや批評ではなく、権威主義である。
映画芸術が真に革新的であるならば、商業的に成功した作品の中にこそ芸術的価値を見出すべきである。大衆と批評家を対立させるのではなく、両者が評価する作品こそが、真に優れた作品である可能性を認めるべきである。『国宝』は、まさにその好例である。
『映画芸術』のワーストランキングは、もはや映画談義を盛り上げるものではなく、単なる逆張りと忖度の産物に過ぎない。流行った映画をこき下ろし、編集発行人の作品を称賛することで自らの存在意義を保とうとする姿勢は、極めて保守的であり、時代遅れである。映画批評は、もっと開かれたものであるべきだ。そして何より、権力構造から自由であるべきだ。


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